亀山城址(愛知県新城市作手)
亀山城址は、愛知県新城市作手『つくで手作り村』近くにあります。亀山城址<案内板より> 応永三十一年、作手奥平氏の祖・奥平貞俊(おくだいさだとし)は、もとは上野国(現在の群馬県吉井)から1375年作手の地に移った。新城市作手に川尻城を築城したが手狭だった為、応永三十一年(1424)亀山城を築城した。初代・奥平貞俊が築城して、その後の165年間は、貞久・貞昌・貞勝・貞能・貞昌(信昌)の五代が居城。北方千mの森・作手清岳にあった古宮城は、三河の徳川家康攻略の為の武田信玄の拠点で武田四名臣の一人の馬場信春が築城。貞能・貞昌父子は、武田氏から離反して徳川家康に再属したため、天正元年(1573)八月、古宮城の武田勢の攻撃を受けたが、石堂ヶ根・田原坂等に転戦してこれを敗走せしめた。天正三年(1575年)、この戦功によって貞昌は織田信長から長篠城主を命じられた。同年5月、長篠・設楽原の戦いが勃発、長篠城は武田勢15,000の猛攻を受けたが貞昌はよく籠城に堪え、織田・徳川連合軍の援軍を受けて大勝した。戦後、貞昌は信長の一字を貰い信昌と改名、新城に築城してこれに入り、家康の長女、亀姫を嫁に迎えた。慶長七年(1602)、信昌の第四子松平忠明が父祖の旧領であるこの亀山城へ、作手藩17,000石の藩主として入城8年間居城。慶長十五年(1610年)、伊勢亀山城主として転じた。その後元和五年(1619)頃の数年間、初期の三河代官として小川又左衛門氏綱が居城。それ以降は、廃城となり現在に至っている。奥平貞昌(信昌)は長篠の戦で長篠城を守り抜き、徳川家康の長女亀姫を嫁に貰い、出世を遂げる。奥平貞昌は徳川家康から信の文字をもらい信昌と改名し、徳川家重臣となる。信昌と亀姫(盛徳院)の間の子供は徳川家康にとっては娘が産んだ外孫です。信昌の四男、松平忠明は、家康の養子となり松平姓を、名は秀忠の忠の字を授けられた。松平忠明は、慶長七年(1602年)三河作手藩主となるが、1610年には伊勢亀山に5万石に加増移封、亀山城は廃城となる。松平忠明はのちに大坂城・姫路城の城主となりました。山家三方衆(やまがさんぽうしゅう)とは、戦国時代に奥三河で力を持っていた土豪三氏族、作手の奥平氏、長篠の菅沼氏、 田峰の菅沼氏、の三人を指す。山家三方衆については、大久保忠教(彦左衛門1560-1639)著作の『三河物語』(1622年)に記載されている。三河物語は、徳川氏と大久保氏の歴史と功績を交えて武士の生き方を子孫に残した家訓書です。亀山城所在地:愛知県新城市作手清岳大手(旧住所:南設楽郡作手村清岳城山3)長篠城所在地:愛知県新城市長篠字市場22-1(旧住所:三河設楽郡長篠)田峰城所在地:愛知県北設楽郡設楽町田峯愛知県の宿