「助けて」が言えない
「助けて」が言えない SOSを出さない人に支援者は何ができるか [ 松本俊彦 ]この本を読みました。困っていそうな人に「困ってません」と言われたら。それ以上、どうしようもないのだろうか。明らかに支援が必要と思える人に働きかけても、「困ってない」と返ってくる。なら、もう何もできない。のだろうか。支援、というと困っている人と支援者のマッチング、というようなイメージで「支援しますよ」という窓口と「助けてください」とドアをたたく人の存在がある。(この国では支援と言っても、ドアをたたくもあれこれ質問されて実質支援を受けづらい面もあるといいますが)しかし、「困ってません」という人の存在。本当は支援を必要としているのに、なぜ「困っていない」というのだろうか。その背景はさまざま。とかく、「困ったから助けてほしい」を口にするまでのハードルの高さを感じてしまう我が国。「こんなことを言ったら、甘えていると言われはしないか」「自分の努力が足らないといわれはしないか」そういう思いをせざるを得ない場面が、数多くあるようです。そんな扱いを受けると分かっていて、支援窓口に出向くだろうか?とにかく、支援の必要な人を責めたり、非難したりせずその背景があることを思いはかることから支援は始まるのかもしれません。(きっと口で言うほど簡単ではないでしょう)***支援をうける、というととかく、何かと「引き換え」に考えられがちだなとこの著書を読んで改めて思いました。「がんばっている」「努力している」が、支援を受ける条件のようになってしまっている。求職などでもそうですね、失業保険はあくまで「求職している」が条件になります。しかし、困っている人は何かと引き換えにしなければ、支援を受ける権利がないのだろうか?著書の中の一つ、「ハウジングファースト」という考え方に強く共感しました。内容はぜひ著書を読んでいただきたいと思うのですが、”人は誰も安全な住まいで暮らす権利がある"(支援と住まいの分離)たとえば、さまざまな問題をかかえている人に住居を提供する際に周囲から「あるべき状態」を押し付けたり、条件にしていないか。”治療や訓練などの支援を受けることを強要していないということは、関係性のなかでの困難を繰り返してきた人に対して誰かに傷つけられたり、誰かを傷つけてしまうことのない安全な場所を提供することにつながる”(本文より)***とかく、困っている人に対しては「助けを求めないのが悪い」と言われがちだが、本当にそうでしょうか?(これは私も長年、子育て支援の現場などで思い続けていたこと)「○○で困っている」を打ち明けられる場所があるのか。普段、身近などころで話したときに「そんなこと言うのは間違っている」と非難されたりしないか。「支援をもとめてよい」といいながら、「そんなのは甘え」「それは非常識」「我慢が足りない」と返されるのを分かっていて、助けの手など求められるわけがない。口で言うのは簡単で、それを現場でどのようにしていくのか。寛容性、をうたうと、自己責任、という言葉が返される今の社会。ぜひ多くの方に読んでみてほしいなと思いました。