ボクチャンのうつ病日誌
うつ病患者の独白2002年2月。無理な仕事をさせられつづけていた私はなるべくしてうつ病を発症した。『このままではつぶれてしまう』と周囲や上司にうったえることはもちろんあったが、こうも数式のようにきちんとうつ病になるとはなってみるまではわからなかった。うつ病という病気は突然やってくるといわれるが、誠にそのとおりで、2002年の2月10日の起床時に、『ううううう、ダメだ。』とその瞬間にすべてを確信した。うつ病がついに来た、と。鈍器でうなじを殴られたようなかんじなのだ。うつ病患者は自分を追い詰めて、強い自責の念にかられるのを常とするが、病気についての知識をもつ私は、一方で無理なことをさせていた組織、とくに管理者について糾弾したい気持ちすらあり、休職についてはさっさと自ら決定した。まあ、半年くらいは期間が必要だと思ったが、主治医は(もともと抑うつ的な性質をもつ私は22歳の頃から知る精神科医に断続的に受診していた)笑いながら、「そんなには、必要ありませんよ」といわれた。こんなにつらい症状がそうそう治るはずもない。と私には思え、うつ症状はどんどん悪化していったわけだが(飯も食えずに、ズボンもぶかぶかになった)、しばらくすると、薬の効果により、これまたどんどん元気をとりもどしていきズボンはぴっちりともとの位置にもどっていったのである。2~3ヶ月でほぼ寛解した。主治医(女医)の予想どおりで悔しい気さえしたが、よくなることに越したことはない。※ウェブによる日記を始めたのは2月12日で、なんにもする気がしないが日記くらいの文章なら意欲があり、たまたまライコスの日記をクリックしたところ、今でいうブログのサイトにやってきたので始めたのだ。その、記念すべき1日目より今日までのログが、ここに残っている。(興味のある人は、日記一覧で書き始めをみてください)3月の頃は病状がすぐれずに日記すらかけない日もあった。が、とにかく、今日まで続いているのである。4月半ばより復職した私は、サウナを入りにいくくらいには回復した。マシンを使った日も何回かある。これも日記で知り合った皆様のおかげだと当時はとても感謝したものだ。しかし。11月の半ばに再燃してしまうのだ。このときは1週間程度休むつもりが3ヶ月休んでしまった。身体、精神のつらさは1回目の発症を超え、病識があるにも関わらず、自殺念慮すら出てきてしまったのだ。復職は少々早かったのかな、と今考えても結果論だ。2003年の1月くらいより再度、復職。おばさんケアマネージャーに陰で嫌われたものだ。謝罪のひとつもないと。だが私にしてみるとじぶんのことに誠意いっぱいだし、うつ病という社会性の強い病気でまわりに謝罪などしていたら、いつまでたってもそこにいるかぎり治らないぞ、と思っていた。この頃、T田が入社してくる。小ぶりながらも社長秘書タイプで美人の彼女は、このおぎーのとコンビを組むことになろうとは露ほども思っていなかったはずだ。2月より支援センターというほぼ放置されていたセクションにふたり配置され、T田はファイルをこつこつと整え、私はケースワークを中心に行い、地域の拠点をつくっていった。T田のクレバーなしごとぶりには感謝したい。がけっぷちの私は、彼女の支えで復活していった。ある程度業績をあげれば、周囲もおとなしくなる。このあと、2004年1月に3週間ほどうつで休み、この冬、12月より今日まで、出勤するほうが珍しいという状況で今日にいたっている。(ここまで書いて、オレはなにが言いたかったのだろうか?よくわからなくなってしまった)早い話が明日こそちゃんと出勤しなければまずいのだ。それをT田が教えてくれるので、彼女の忠告に応えなければと思いつつ、生活状態が改善されてなくて、我ながらまったく困ったものなのである。T田はやんわりと励ましてくれる。社長秘書のごとく的確に。(じっさい、以前は外資系化粧品会社の社長付きだった)T田はほんとに性格のいい、美人さんで、いつもニュートラルなポジションだ。しかし、T田の励ましにプレッシャーを感じるじぶんがいるのである。"ちょっと、うつ病の奴に励ましは逆効果だぞ”と、自ら、T田さんにはいえないのである。明日の起床時、いつものように非常にくるしい気分を味わうことになるだろう。いつもならくじけて休みの連絡だ。だが、明日からは、布団を蹴飛ばして、シャワーを浴びて、身だしなみを整えて出勤せねばならぬ。できるだろうか。この一言をいうがために2,002年までさかのぼってしまう私の心象はなんだろうか。