昔語り:昭和30年代の運動会
私が小学生だったのは、昭和30年代だ。その頃、運動会といえば、一大行事。学校だけでない、親だけでなく、村をあげての一大行事だった。山奥の小さな村に育ったので、小学校と中学校が同じ敷地にあった。もちろん、運動会も小中合同。ヨーヨー釣りや綿菓子、おもちゃなどを売る出店が出て、いつもと違う雰囲気の運動場。小学校にあがる前の子に「おもちゃとり」というかけっこがあった。並んで「よーいドン」で走って行っておもちゃをとってくるというもの。それが私の運動会初参加だった。 運動会の一番人気は、村の大人と、中学生が交じっての地区対抗リレーだった。地区は、「上(かみ)」、「中」、「下(しも)」に分かれて大人に交じって中学生も走る。私の家の近くに住む中学生の女の子、Mちゃんは、足が早いと有名で、中学生ながらリレーの選手だった。 彼女は、走る時、運動靴から藁草履(わらぞうり)に履き替えて走る。他の人も、藁草履が多かった。裏がゴムの運動靴は滑るからだ。この日も走ったMちゃん。途中で、裸足に。それを見ていた応援団は「あっ!Mちゃんが、草履をぬいだ!本気で走るぞ!!」と大声で声援。Mちゃんが、どこの家の子どもで、どこに住んでいると応援する人たちは、村が違ってもみんな知っている。昼食は、家族と筵の上で食べる巻きずしとゆで卵という、当時のうちの一番豪華なものだ。ダンス、騎馬戦、借り物競争、応援合戦、玉入れ、玉転がし、リレーに仮装行列・・・。見る方も、みんな知ってる人ばかりなので、応援に熱が入る。 同じ地域に居住して利害を共にし、政治・経済・風俗などにおいて深く結びついている人々の集まりである地域共同体。あの頃の運動会は、学校の行事ではなく、地域共同体の行事だった。この共同体意識がなくなったのは、中学2年、生まれた村から兵庫県竜野市に引っ越した頃だ。同じ村で生まれ育ち、働き死んでいく。その途中での楽しみとして、運動会はあったのだと思う。だからみんなあんなに夢中になったのだ。 「人間関係の喪失や帰属意識 の希薄化は,人々において不安や苦悩をもたらし,幸福 感を低下させるものと考えられる。」小学生の頃、幸せだったと思うのは、私が、どこの誰で、誰の子どもということをみんなが知っていたからだと思う。今の私を知るのは、ほんの一握りの人だけ・・・。今、私は、完全に幸福と言いきれないのは、コミュニティが希薄だからだろうか・・・。・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・・