大川:天神橋
大川の下流に目を移すと、中之島の剣先が見える。先端に設置された噴水は定期的に放水し、大坂の新名所のひとつになっている。 この剣先を含む中之島の先端部分は、大正時代に埋め立てられたもので、それまでは現在の大阪中央公会堂の先が剣先であった。明治時代の測量地図を見ると自然に出来た中州が確認できるが、それを整備拡張したのだろう。「ぶらり大阪地形さんぽ」新之助(朝日新聞2017.6.5)■天神橋■天神橋は文禄3年(1594)に架けられたと伝えられ、当初は橋の名はなく新橋と呼ばれていたが、天満天神社が管理することからしだいに天神橋と呼ばれるようになったという。天神橋の架設は上町台地と大坂の北部方面を結ぶという意味で大変重要であり、後に天満組となる現在の北区の一部の発展を約束するものであった。橋が地域を結びつける上でいかに重要な役割を果たしているかは、戦争の経過を追うとよくわかる。大塩平八郎の乱の発生を知った幕府はいち早く三大橋をこわし、反乱軍をふせごうとした。 明治18年7月初めに大洪水により淀川筋の橋は次々と流されたが、その直後に鉄橋化されることになり、天神橋には、ドイツからの輸入品で長大スパン66mのボーストリングトラスが用いられた。現在の天神橋は第1次都市計画事業によって完成したもので、低い軽快なアーチが中之島の剣先の風景によくマッチし、水都大阪の代表的な景観を形造っている。主要部の形式は3連の軽快な鋼2ヒンジアーチで、両端には重厚なコンクリートのアーチを置き、全体のデザインを引き締めている。昭和62年、剣先側にらせん形のスロープが設けられると同時に美装化がなされ、遣唐使船の陶板ブロックや天満宮所蔵の天神祭絵巻を模写した絵陶板が飾られている。天神橋(てんじんばし)は、大川に架かる天神橋筋(大阪市道天神橋天王寺線)の橋で、大阪市北区天神橋と大阪市中央区北浜東の間を結んでいる。1594年(文禄3年)の架橋とされ、当初は大阪天満宮が管理していたが、1634年(寛永11年)に他の主要橋とともに幕府が管理する公儀橋となった。難波橋、天満橋と共に浪華三大橋と称され、真ん中に位置する。浪華三大橋の中で全長が最も長い。また、1832年(天保3年)の天神祭において、橋上からだんじりが大川へ転落して溺死者13名を出す事故があり、「天神橋長いな、落ちたらこわいな」と童歌に歌われた。明治初期までは木橋だったが、1885年(明治18年)の淀川大洪水により流失。1888年(明治21年)にドイツ製の部材を主に用い鋼製のトラス橋として架け替えられた。先述の童歌からもわかるように、天神橋の下に陸地はなかったが、1921年(大正10年)以降、大川の浚渫で出た土砂埋め立てによりさらに上流へ拡張された中之島公園を跨ぐようになった。1934年(昭和9年)には松屋町筋の拡幅に合わせて、ほぼ現在の形である全長219.7メートルの3連アーチ橋となった。鉄橋の橋名飾板は、現在天神橋北詰に保存されている。天満橋の橋名飾板と同じスタイルだ。■天神橋■橋長:210.70m幅員:22.00m形式:アーチ橋(2ヒンジアーチ)完成:昭和9年行政区:北区、中央区河川名:大川(旧淀川)アクセス:大阪市営地下鉄堺筋線・京阪本線 北浜駅 30番出口 およそ350m 徒歩6分 大阪市営バス「天神橋」■大川:天満橋■■天満橋界隈:将棊島■■天満橋界隈:天満の子守歌と青物市■・・・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・