男どき女どき:向田邦子
■男どき女どき■向田邦子何事も成功する時を男時、めぐり合わせの悪い時を女時というーー。何者かによって台所にバケツごと置かれた一匹の鮒が、やがて男と女の過去を浮かび上がらせる「鮒」、毎日通勤の途中にチラリと目が合う、果物屋の陰気な親父との奇妙な交流を描く「ビリケン」など、平凡な人生の中にある一瞬の生の光芒を描き出した著者最後の小説四篇に、珠玉のエッセイを加えた、ラスト・メッセージ集。 「思い出トランプ」、「眠る杯」などなど、向田邦子の本は、タイトルが面白い。タイトルを見ただけで「?!」となり、読んでみたくなる。「男どき女どき」もそうだ。「男どき女どき」とは、世阿弥の「風姿花伝」になかの言葉だそうだ。 たいしたことをしていないのに、なぜか物事がスムーズに進んで良いことばかりが続いたり、 あるいは努力しても結果に結びつかないどころか、公私ともに不運が重なるということが。 世阿弥はそれを男時と女時に分ける。 男時とは、何をやってもうまくいく隆運発展の時分で、 女時とは、何をやってもうまくいかない衰運停滞の時分。◎雌雄を決す、など強いのは、よしとされているのは、男というわけだが、当時は当たり前の考え方だが、今のご時世、納得のいかない言い方だ。●読書メモ● ◎は私のつぶやき。●達夫に惚れていることに間違いはないが、蕪雑で陰影に乏しいところを百も承知しながら結婚を承知したのは、二十四歳という年齢のせいでもある。(「三角波」)◎私たちの時代、結婚適齢期は、25歳までと言われていた。25歳を過ぎ、26歳になると、26日のクリスマス・ケーキなどといわれ、遅いと言われた。●一度でも自分のいった国、ペルー、カンボジア、ジャマイカ、ケニア、チュニジア、アルジェリア、モロッコ、そういう国が出てくると、どんなかけらでも食い入るように画面を眺める。自分が見たのと同じ光景が出てくれば嬉しいし、懐かしい。見なかった眺めだと、口惜しいようなねたましいような気持になって、説明に耳をかたむける。(「反復旅行」)◎海外旅行あるあるだ。●99パーセントの成功と1パーセントの失敗を期待して、人々はサーカスに出かけてゆく。オートレースに事故がなかったら、闘牛士が絶対に牛に突き殺されなかったら、空中ブランコが絶対に墜落しなかったら、見物人は半分に減り、ため息も興奮も拍手もおそらく今の半分であろう。(「サーカス」)●花をいけるということは、やさしそうにみえて、とても残酷なこどた。花を切り、捕らわれびとにして、命を縮め、葬ることなのだから。花器は、花たちの美しいお棺である。花をいけることは、花たちの悲しい葬式でもある。この世でこれ以上の美しい葬式はないであろう。栗崎さんは、わたしの知る限り最高の司祭である。(「花底蛇(かていのじゃ)」)◎1977年の雑誌、「anan」を今も大事に持っている。フラワー・アーティストの栗崎氏の花に憧れて、真似をして、松、水仙、南天を活けたことがある。向田邦子さんも「anan」を読んだだろうか。人の生の男時女時をさくらかな 小澤克己・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・