読書感想『地球星人』
『地球聖人』村田沙耶香 新潮文庫 「ヲコ幻想」をそのまま物語にしたような小説である。 人間はサルから進化したといわれている。なにが進化したのか、それは本能(有機物が存在を続けるために必要なもの)を幻想化したことである。 本能にすぎないものが、なぜこんなにもいろんな価値がある幻想になりえたのか。神がAdamとEvaに隠せと言ったからである。それを破ったから人間はどえらい目にあっている。「原罪」に匹敵するぐらい価値があるもの、それが「ヲコ幻想」。だからこの小説にも書かれているように、あれのための器官にすぎないのに、人間存在の価値そのものようにふるまうのである。それとうまく付き合えないやつは、欠陥部品として工場のスクラップ置き場に投げ捨てられるのである。「コンビニ人間」の主人公も中古青年もスクラップ人間である。この小説に登場する何人かもスクラップ人間ということである。もちろんあたいもそうである。 この本はまた「自由」とは何かを問いかけている。あたいのようなおいぼれには、「自由」について考える気にはなれないが、若い人には「自由」について考えざる得なくなるだろう。AI化が進めばAI判断(アルゴリズム)が絶対客観判定の正義とされる。そうなると人間の「自由意思」は減少傾向になっていく。考えるというめんどくさいことが、あほらしくなるということだ。 「コンビニ人間」でも感じたのだが、この作者は安部公房の系にあるような気がする。この本も「方舟さくら丸」に似た感触がある。 あたいもスクラップ人間だから、この小説を読み通せたのだろう。まっとうな部品はこんなあほらしい小説は読まない。 足もとに石ころが転がっているようで歩きずらい、そんな小説である。それも安部公房に似ている。 まあ、あたいはやっぱり世の中は「私有幻想」と「ヲコ幻想」だけでうごいているのであると言いたい。