カテゴリ:ユークリッドの平行線
夜になって帰宅した夫と話し合い、育樹は私が連れて行くことにした。 ちょうどいい機会だから最近気になっている様子についても、育樹が生まれてすぐ入院した横浜の病院で診てもらえばいいだろうということになった。もし向こうで時間的な余裕があればの話だが。 一週間も学校を休ませるのはどうかと思ったが、体調が心配だったし、授業に遅れてもまだ一年生だからそれ程難しい内容ではないので、後から追いつけるだろうと判断した。 だが、豊樹はそういうわけにはいかない。四年生の三学期に一週間も学校を休ませていては後から授業に追い付くのが大変になるだろう。だいたい豊樹本人には、一週間も学校を休む理由なんて何もないのだから。 「えー、育樹だけ行くん? 俺も行きたいのに」 豊樹は思い切り不満そうな顔をしたが、すぐにこう言った。 「でも横浜行ったら、みんなと遊べなくなるんかぁ。月曜日にデュエルの大会もやらんといかんし。俺、責任者だからなぁ」 デュエルというのは豊樹の友達の間で流行っているカードゲームのことで、企画から準備まで全て子供だけで進めた仲間内だけの大会が、来週開かれる予定だった。豊樹はその大会の言い出しっぺとして、大会委員長になっていた。 本物そっくりの賞状を作ったり、一人一個ずつ使わなくなったオモチャを持ち寄って入れた福袋もどきを優勝者への副賞にしたり、ここ数日はその準備に明け暮れている。 とは言え、本当は一緒に行きたいに違いない。夏休みに帰省した後、「次はいつ行くの? 秋? 冬?」としつこいくらいに言っていたのは豊樹だったのだから。 「そうだよ、大会委員長がいなかったら、デュエルの大会もカッコつかないじゃない。それに今回は横浜に遊びに行く訳じゃないんだから」 「うん、分かった。でも次に行くときは連れて行ってよ」 こういう時の豊樹は聞き分けが良かった。 生まれてから一歳になるまで育樹は入退院を繰り返していた。そのため豊樹は一番我が儘が言いたい時期から、たくさんの我慢を強いられてきた。 生まれてすぐに育樹が入院した病院は両親以外は病室に入れなかったため、豊樹を一緒に連れて行くわけにはいかず、いつも親戚に預かってもらっていた。病院には毎日通っていたので、私も豊樹といられる時間が限られる上に、家にいる時は家事に追われ遊んでやる暇もなかった。 それでも子供ながらに大変な状況を分かっていたのか、怒って駄々をこねたり大泣きして私を困らせることはしなかった。 そんな状況に慣れてしまったのかもしれない。寂しいと思う反面、そういう時に親を困らせてはいけないということを、豊樹はいつの間にか会得してしまったようだった。 大人を気遣い「俺なら大丈夫」と笑う豊樹が頼もしくもあり、親としては辛くもあった。子供の心はいつだって、いじらしくて愛おしい。 「しばらく離れ離れになっちゃうんだから、今日は一緒に寝ようねー」 その日の夜、私はそう言って豊樹の布団の隣に自分の布団を敷いた。豊樹は「えー、しょうがないなぁ。別にいいけど」とまるで駄々っ子を迎えるような顔をして、少し照れながら笑っていた。 次の日の朝、夫と豊樹を送り出した後、子供たちが通う小学校に電話した。 育樹の担任に事情を話し、一週間ほど育樹を休ませることを告げた。豊樹の担任には昨夜手紙を書いて、今朝豊樹に持たせた。手紙には私が横浜に行くこととその間に何かあった場合の連絡先として私と夫の携帯の番号と、学校から帰宅し夫が仕事から帰ってくるまでの間、豊樹の世話をしてくれることになった親戚の電話番号を書いておいた。 その後、私は朝食の後片付けや今日の分の洗濯など、出かける前にできるだけのことはやっておこうと忙しく動いた。そんな私とは対照的に、今日からしばらく学校へ行かなくて済む育樹は、横浜に持っていくオモチャやマンガを楽しそうに選んでいた。 旅行気分で楽しんでくれるのはいいけれど、実家と二つの病院を行き来するだけの一週間、ずっと機嫌よく過ごしてくれるだろうか。いつもの遊び友達とも会えず、行く所も静かに大人しくしていなければならない病院ばかりで面白くはないだろう。 二階のベランダから見える空は、晴れて青く澄み渡っていた。空気が乾燥していて洗濯物が良く乾きそうな天気だったが、夫は今日も何時に帰宅できるか分からなかったので、洗濯物は部屋の中に干しておいた。 「育樹、そろそろ出かけるよ。準備はいい?」 洗濯物を干し終えて下に降りると、育樹はリュックいっぱいにお気に入りのオモチャやマンガ、お菓子などを詰めていた。 「ほら、こっちにはちゃんとゴミ袋も入れたし、ティッシュとハンカチも入れとるけん。予備のゴミ袋もあるし」 得意げにそう言う育樹は、リュックを背負いお茶を入れた水筒を首からかけて、まるで遠足にでも行くかのようだった。 「遠足に行くみたいだね。でも遊びに行くんじゃないんだよ。じいじとばあばのお世話をしに行くんだからね」 「分かっとるって」 無邪気な笑顔は、雑多とした不安を抱いていた私の気持ちを和ませるに十分だった。(つづく)
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