ある鯉党のたはごと2021最終章後編;教条主義を打倒せよ。
これも最近の学生や実務家にはなじみのない名前かもしれないが,現代刑法学の深化に多大な影響を与えた藤木英雄博士にこんなエピソードがある(以下出典は,前田雅英「法の奥底にあるもの ゆく川の流れは絶えずして万事塞翁馬 」(羽島書店)によった。)。藤木博士がある学会で研究発表したときに,木村龜二博士に次のような質問を受けたという。「君の見解はよくわかる。でもそれは,リスト=シュミットの25版(註:当時のドイツにおける最も信頼の置ける刑法の教科書)の何ページに書いてあるのですか」と。藤木博士はそれに答えることができなかった。これを読んで,大方の人はおかしいと思うだろう。日本の刑法の解釈学の議論をしているのに,ドイツ刑法の教科書に書いてあることを正当化事由としなければいけないのだろうかと。しかも修士論文指導ならまだしも,一家言ある学者の研究発表の場である。でも,そういう時代があったと言うことである。今がどうかは私は寡聞にて知らないが,いまだに「ドイツでは~」「アメリカでは~」という「出羽守」型議論などという言葉があるようだから,絶無ではないのかもしれない。そこで,半ば無理矢理に昨日の議論とつなげるのだが,昨日書いたカープ界隈に出回っている支配的見解って,まさにそういうでき方ではないだろうか。もちろんそんなことを書いている教科書などないのだが(それを否定する論拠ならたくさんあれど),方向性はひとつに収斂するのではないか,そう,「カープらしさ」という魔のワードに。これぞまさにこの界隈における「リスト=シュミットの25版」であると思うのである。もっというなら,この「カープらしさ」という概念は,さらに独自の変異を見せている。何度も言うようだが,資金力に限界のあるカープは独自の方法論が必要であって,他球団と同じようにはできない。それが今カープでやっている野球である,と。これはもう完全に朝鮮民主主義人民共和国である。彼らの言うところのチュチェ思想,ウリ式社会主義とまるっきり同じ筋ではないか。単に独裁権力を一手に握る領導様の支配にひれ伏すだけでは物足りないと見える。と,いうことは,彼らの言っていることはまるっきり筋の悪い教条主義的な言説なのであって,本来鼻息で吹き飛ばせる程度のものだと言うことである。それができないのは,彼らがその教条主義にどっぷり浸かりきってその思想と自己同一化しているが故に,教条主義的思想を否定されると完全な自己否定と捉えられて,なおのこと殻に立てこもってしまうからかもしれぬ。しかし,誤りは誤りだし,それをもって多くのファンを騙すことは最も許されない誤りである。21世紀も二十数年過ぎようとしている球界に,その時間軸を三十年,いや五十年戻すがごとき野球をやることは許されないのだ。だから,私は今流布している教条主義的見解を弾劾する。「カープらしさ」?そんなもんくそ食らえってんだ。来年こそはこんなものぶっ飛ばしてやりたいと思う。来年こそ,緑色マシンガン乱れ撃ち★BlogPeopleSIGMA People