ギムレットはうま過ぎる
連休を利用して、一月近く前から読み始めていた村上春樹訳の「ロング・グッドバイ」を読み終えた。別名「長いお別れ」、原題「The Long Goodbye」である。 通読するのは何度目だろうか。昔からある清水俊二訳のハヤカワ・ミステリ文庫の表紙はもうボロボロに近い。村上春樹訳も早川書房から出版されているが、まだピカピカの単行本。これが文庫本になったとき、チャンドラーでも読んでみようかなと思った若者は、どっちの「The Long Goodbye」を買うのだろうか。 村上春樹訳は、優しかったな。自然にハートにしみ込んでくる感じ。清水俊二訳の方はもっと硬かった。文体にぎこちなさというか、現在こんな言い回しはしないであろうというような違和感があって、逆に真剣に読んだような気がする。 例えばだ。物語の前半で、マーロウとレノックスが分かれるシーンがある。清水俊二の訳はこうだ。かなり印象的なシーンだ。 「よけいなことをしゃべりすぎるね」と私はいった。「自分のことをしゃべりすぎるよ。また会おう」私はバーの光線でもはっきりわかるほど青白い顔に驚いた表情をうかべた彼を残して、店を出た。彼がうしろから何かいったが、私は足をとめなかった。 一方、村上春樹訳は、 「君はいささかしゃべりすぎる」と私は言った。「それも自分のことをしゃべりすぎる。またそのうちに会おう」私は彼を残してさっさと店を出て行った。テリーはショックを受けて、顔面が蒼白になっていた。バーの照明は貧弱だったから、たしかなことは言えないけれど、そのように見えた。背後から何か声をかけられたが、私は歩を止めなかった。 原文を読んでいないのでなんとも言えないけれども、清水俊二のシンプルさと村上春樹の優しさのニュアンスがわかるだろうか。 清水俊二は不親切である。言葉はわかりやすいのだが、不思議な違和感が常につきまとっていた。だから、何度も何度も繰り返し読んだ。何度も読んでいるからかもしれないが、村上春樹は優しい。何度も読む必要はない。でも繰り返して読めば、また違った味わいがあるのかもしれないな。 清水俊二訳は、原文をかなり省略していたらしい。村上春樹は原文を残さず訳したらしい。そんな違いもあるのだろう。 「The Long Goodbye」は友情の物語だと言われているようだが、僕にとってはフィリップ・マーロウとテリー・レノックスの関係は、「友情」と言うものとは少し違っているような気がする。だったら何なのかと言われると困ってしまうのだが、マーロウはこう判断してこう行動した、テリーはこうだった、二人の関係を友情と呼ぶ者がいればそう呼ぶがいい、違うと思う者がいればそれはそれでいい、あなたたちがどう感じようとそれはあなたたちの勝手だ、みたいなところがこの小説にはある。 いつか原文を読んでみたいものだな。 先日、パナセに行ってギムレットを飲んだ。パナセのギムレットは、ボンベイサファイアにライムジュース、シェーク。それだけ。とてもドライだ。シュガーもなければ、ジンの味さえしない。 ローズのライムジュースで作ったギムレットを飲んだことはないが、代用品の甘いライムシロップで作ったものを飲んだことはある。甘くてとても飲めたもんじゃなかった。 僕のイメージするギムレットは、ゴードン、ライムジュース、シュガー入り。ごく普通なギムレットだな。だからといってそれにこだわる気も毛頭なく、パナセの切れ味シャープなギムレットもギムレットとしておいしい。レノックスに文句を言うわけじゃないが、ビター入りも悪くないよ。 それはまあ、「The Long Goodbye」に感じる思いが人それぞれであるように、あるいは清水俊二訳と村上春樹訳がどちらも「The Long Goodbye」であるように、ギムレットだって色んなギムレットがあっていいと思うから。 村上春樹訳にあえて注文をつけるとすれば、訳者あとがきが長すぎるってことだ。僕はたいていあとがきも丁寧に読むタチなのだが、あんなに長いと余韻を壊しちゃうように思われたので、最初の1ページを読んでやめた。長く書きたければ別なところにエッセイでも書いてくれ。