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カテゴリ:言語・文化・コミュニケーション
日本語は主語などを省略するので、非論理的な言語だという意見を時々聞く。
うーん。どうかな・・・と思う。 私は非論理的な日本語を書く人がいると思ったことはあるが、日本語が非論理的だと思ったことがない。非論理的な文章を書く人は、文章執筆の訓練を受けたことがないからだと思っている。(←このような人の日本語の文章を英訳するのは、かなり大変である・・・笑) 日本語で主語や助詞などを省くことが多いのは、文脈や敬語そして女言葉、男言葉、子供言葉、その他年齢や社会階層を表す言葉などがあれば、主語や助詞を書かなくても、誰の発言なのか、ほぼわかるからだ。わかるものは、わざわざ書いたり言ったりしなくても良いのだ。 そう、日本語は主語以外の言葉使いで、その集団内の人間関係と発言者をかなり細かく特定できる。(このような言葉使いを習得していない日本語学習者にとっては、誰がしゃべっているのかさっぱりわからず、この段階で文脈の意味が取れなくなるだろう。) それに加えて、一般的な日本人の間や特定分野・サークルの日本人間で知っているはずの「共通知識や共通認識」があることを前提として、日本人は日本語を話したり書いたりしている。前提知識は暗黙の了解であり、これもわざわざ明言しなくても良いのだ。 私も、友人が「字数制限がある携帯メール」で徹底的に主語と助詞を省略して、私には何の関係もない、しかも私が全く知らない個人的な話を書いてきた時、該当する状況がいくつも浮かんできて何の話かよくわからず、「誰が何をどうしたのか」を聞き返したことがある。 このように、その共通知識や共通認識を共有していない外部の人、つまりその集団外の人は、同じ日本人でも主語や助詞が省略されると、何の話かわからない。 外部者にとっては、いわば内輪の話だからだ。 つまり日本語は、日本語を使っている人の同質性・共通認識を前提にした「非常に柔軟性が高い(つまり、どうにでも使える・・・笑)」言語であると言える。 共通認識がない外部者に物事を説明する時は、内輪で省略した部分を説明する必要があるが、ほとんどの日本人が、この『状況や共通知識を知らない外部者に説明する』という訓練を積んでいない。そのために、時々外部者から「日本語はわけがわからない」「非論理的だ」との批判を招くことになる。 この場合、わけがわからないのは、その集団の日本人が持っている共通認識がないからなので、たとえば日本語ができて日本人と同じ共通認識がある外国人は、いとも簡単に普通の日本語を理解している。 私は「非論理的な言語」などというものは存在しないと思う。人々がある言語を使って話し、生活し、お互いの意思疎通を図っているのなら、その言語を使って論理的に意味を伝えているはずだ。 日本人同士で非論理的な日本語を使っているから、日本人の間でちゃんと話が伝わらず、日本社会が混乱したなんて話は聞いたことがない。(わざと玉虫色の文章を書いて、どうにでも解釈できるようにごまかすことがあるかもしれないが、これは何らかの目的で意図的にやっている。) もし日本語の文章が非論理的ならば、日本語が非論理的なのではなく、その文章を書いた人に論理的な推論力か文章力がなくて、非論理的にしか表現できなっただけなのだ・・・ つまり、日本語の文章が理解しづらい時、 (1)読み手や聞き手の日本語が、日本語のネイティブ・レベルではない。 (2)聞き手や読み手に、話し手や書き手との共通認識がない。 (3)話し手や書き手に文章力や論理的な推論力がなくて、文章を書くのが下手なので、 または文章を論理的に展開できないので、文章がわかりにくい。 このいずれかが理由だと思う。 しかし、なぜか往々にして、「日本語という言語自体」が非論理的だから、日本語はわかりにくいと言われる・・・ ある言語が論理的かどうかという時、その言語の文法が明確かつ徹底的に定められているかどうかを指すことが多い。つまり文法という「規則」が細かいと論理的な言語と言われるのだが、これは厳密には「論理」とは無関係である。 そう、文法という『規則』と『論理』は、全く別物なのだ。 たとえば、ドイツ語やロシア語のような明確で細かな格変化の規則は、英語には(もちろん日本語にも)ないが、だからと言って、英語や日本語が、ドイツ語やロシア語よりも非論理的だとは言えない。 英語や日本語に細かな格変化の規則がなくても、日本語やスペイン語で主語を省いても、ドイツ語の受動態で主語を省くことがあっても、文章や発言を論理的に展開できる。 ただし、文法という規則が細かく定められている場合、その複雑な規則を一旦覚えてしまえば、その言語が母語である人々と同じ共通認識がなくても、その細かな規則でかなり厳密に意味を限定できることがある。その言語を学ぶ外国人にとっては楽である。もっともその複雑な規則を覚えるまでが大変だが・・・ (私など最近ロシア語の格変化を見た途端、そのあまりの複雑怪奇さに 「あ・・・まずドイツ語とフランス語の学習、ロシア語はその後ね・・・」 と思ってしまった・・・笑) 逆に言えば、言語の規則・文法が緩ければ緩いほど、言語や発言の背景・状況に関して、その言語を母語とする人々と同じ共通認識が必要になってくる。 (←つまり、規則が少ない分、その言語を話す人達の一般常識で判断する・・・) さて、外国語として学習する言語を選ぶうえで、(極論すると)細かに定められた文法を覚える言語が良いか、その言語集団の共通認識を覚える言語が良いか。笑 いずれにせよ、非論理的な言語などというものは存在せず、日本語も非論理的な言語ではないと思う。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2010.10.16 21:01:47
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