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カテゴリ:言語・文化・コミュニケーション
小さな頃、テレビでチベットかネパールの高山族の鳥葬を見たことがある。
人間が死んだら、山に遺体を置いて、鳥に食べてもらうのだ。 食物連鎖にこれほど貢献している人間の風習は、他にないだろうと思う。 人間も、食物連鎖に組み込まれている地球の1つの生命体にすぎない。 人間も死ねば、 他の種族を生かすため、他の種族の次世代を作るため、 自分の体を構成しているタンパク質や分子、原子を提供するのだ。 死んだ人間の体を鳥が食べ、 その鳥をまた他の大型鳥類や肉食動物が食べ・・・ そうして提供したものが、巡り巡ってまた人間の体を作ることになる。 植物を草食動物が食べ、その草食動物を肉食動物が食べる。 人間も、植物や草食動物や肉食動物を食べる。 動物も人間も死んだら、他の肉食獣に食べられるか、 土に還って、有機物として土を肥やして植物を育てる。 その植物をまた草食動物や人間が食べ・・・ グルグルとめぐりめぐって、人間に還ってくる完全な循環系の食物連鎖。 食物連鎖の中でも、 野性の動物の世界は、おそらくいつも食うか食われるかの戦い。 猫を大型化したような一見可愛い(?)ライオンの前に人間が飛び出せば、 人間を母だと思っていたライオン「野生のエルザ」ならいざしらず、 人間はあっという間にライオンに食い殺されてしまうだろう。 普通のライオンにとっては、人間は獲物、つまり食べ物でしかないのだ。 これが食物連鎖、これが生態系なのか。 食物連鎖や生態系の非情さに、文明で対抗して自らを守る人間。 牙も爪も腕力もない非力な身体にも関わらず、 文明で食物連鎖の頂点に立った人間。 普段は、こんな残酷とも言える野性の世界を知らなくても 生きていける人間の文明の贅沢さに感謝。 でも、本当はこの食物連鎖や野性の世界が、 地球が古代から培ってきた世界、本来の生態系なのだ。 野性の世界や鳥葬をテレビなどで見るたび、それを実感する。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2012.07.01 21:28:08
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