”陸上競技の先人”
私の”陸上競技のおたく生活----自己流のジョギング程度はしていましたが,実際の観戦,新聞,テレビでの”を通しての”選手との出逢い”(一方的ですが)について述べてみます。(出逢いNo.1----中学生~高校生頃)まず中学校での先生方には,陸上競技の”記録の出る”面白さを知りました。当時の学校は手作りのグラウンドで,できるだけ水はけの良い山土を,生徒みんながトンボなどを使って,平らにならし,あとは業者の方にローラーで固めてもらい,炭殻(石炭の殻)を敷き詰め,さらにローラーで固め,何度も硬さを確かめてから完成しました。雨の降った日は”針の長いスパイクにはきかえ,足のすべりに注意したそうです。高校では《 1965年 》,担任の『品村晃弘先生』が 『青森-東京間駅伝競走』 (通称青東駅伝)での話しをよくしてくれました。 選手の食事や,練習方法,朝はレースの4時間前に起床して軽い練習をするとのこと。ということを聞いてますますはまっていったのです。 2番目の兄に連れて行ってもらった東日本実業団陸上(千葉での全天候トラックのこけら落とし)は,初めての一流選手との出逢いが待っていたのです。その中では,山田宏臣選手(以前の東京急行)(1m81,72kgで脚長な体格)ちょっとおでこが薄く,筋肉質で精悍なマスクは(男の私が言うのも変ですが)とてもバイタリティーがあり,魅力的な方でした。走り幅跳び,110mH,各リレーでの活躍は ”なんでもできる人なんだな!”と妙に感心しました。(その後,アジア大会では,器用さを買われ,急場しのぎの棒高跳びを除けばとてもよかった十種競技へ初挑戦で6000点を軽くオーバー!)丁度,”月刊陸上”が発刊されたときの表紙に110mHでの山田宏臣選手の雄姿が掲載されていたのです。走り幅跳び山田選手は,朝隈膳郎コーチとの京都知恩院での独特な階段練習(2段,3段抜きなど)を取り入れていたことで有名です。また,食事の面で結構,気配りをしていたと陸マガに掲載されていました。1日6,000キロカロリー(なんと普通の大人の役3人前!!)の食事の量,ケーキ,ご飯,もちろん野菜も,そして”山田ミックス”という蜂蜜がたっぷりで,牛乳やプロティンなどが入った飲み物を数杯(’がばがばと’と言ったほうが良いかもしれません。)飲んだという。メキシコ五輪(1968年)での”活躍”は,最終選考会の日本選手権でその兆候があったと言えましょう。追い風参考ながら7m84を出し,走り幅跳びでは小倉新司(岐阜北高教員),阿部直紀(東急)の順天堂大の卒業生トリオで代表を占めてしまったのです。メキシコシティは2,400mの高地であり,その影響を+に転じたのは短距離競争であり,跳躍種目であったのです。1跳目に薄いメキシコの空気(通常の3/4程度の酸素濃度)に見事マッチした生涯で会心のジャンプをしましたが,審判が悩み微妙な判定の末,赤旗が上がってしまったのです。その後の跳躍で,7m93のPBを出しましたが,結局9位に終わり,ベスト8にあと1cmまでとは!大変惜しいことをしました。このときの優勝者がボブ・ビーモン〈アメリカ)で,同じ1回目に,瞬間彼だけがふんわりと風を利用して,滞空時間のある絶妙な跳躍を見せてくれたのです。【 8m90 】というとてつもない記録を打ち出したのです。(その後,1991世界陸上東京でマイク・パウエル(アメリカ)が8m95を出すまで23年間も破られなかったのです。)風も絶好のジャスト+2.0m。そのときビーモンは地面にキスをし,星条旗を持って飛び回り,”大いなる喜び”を表現していたのを,今日起こったことのように思い出します。正に,『 世紀の一瞬 』 でした。2位はテル・オバネシアン(ソ連)8m35,3位はラルフ・ボストン〈アメリカ)という”錚々たるメンバー”でした。その中に,山田選手もいたのです。なんとも『幸運』でもあり,なんとまあ『悲運』なことだったのでしょう。その後,1970年の実業団対学生対抗(小田原城山競技場)で活躍し,8m01と,初の日本人8m00突破者となり,必然的日本記録となったわけです。朝隈コーチいわく,”1cmじゃみみっちいなあ,もっと大胆に20とか30を出せばよいのに。”のようなことを言われたようです。まだまだこれからだと言う意味だと思いますが。こうして,39年ぶりに南部忠平さんの7m98を見事3cmクリアーされました。けれども,その試合の前後はそれほど調子が良くなく,彼にとって”この日”はまさに,『奇跡』の日だったようです。山田選手が踏み切り板を審判長から記念にもらい,喜色満面の様子(陸マガ,月陸両方での写真でですが)の様子が今でも鮮明に覚えています。選手生活を引退された後は,韓国の東急ホテルの支配人をされたそうですが,なぜか急死されたとのこと。それでも,『走り幅跳びの後継者』の大事な役割を果たされ,現在の8mジャンパーの量産?へと続いたと思います。健在でおられたらなあと思うと残念でなりません。当時,学生で人気,実力No.1だったのが沢木啓祐(順天堂大----現在の陸連専務理事)選手が活躍していました。1967ユニバシアード東京大会では,ラストスパートがさえ,5,000m,10,000mの両種目でアメリカのネルソン選手との一騎打ちに勝ったのです。記録的には,それぞれ,14分台,29分台と当時としてもいまいちだったのですが”勝つことが優先だったのはもちろんのことだったのでしょう。(何か,胸のすく思いがしたのを覚えています。)その後の沢木選手(すでに5000mで13’45”2の日本記録を出していました。)は,当時の帖佐寛章監督(元の陸連専務理事,副会長)とともに欧州遠征に出かけ,イギリスの試合で西ドイツのフィィリップ選手に,例のラストでの切れ味の鋭いスパートで勝ち,見事に13 ’36”2の日本記録を達成されました。帖佐監督と二人とも満面の笑みを浮かべ,ひしと抱き合っていたその姿には”ジ~ン”とくるものがありました。両人とも眠れない1日を過ごされたと思います。その後,5000mでは5位ながら13’33”0,10000mでも同様に28’35”2とさらに記録を更新しました。しかし,初マラソンでは(当時の別府大分毎日マラソンで2’16”台似終わる。)最初は先頭グループついていましたが,後半に崩れ失敗レースに終わってしまいました。なお,メキシコ五輪では残念ながら,高地民族のアフリカ勢に敗れてしまいました。 第1話 終了 2007年5月27日(日) 0時50分