はじめてのシンビジューム日記。その13
1月1日。やっと3年目で。念願のシンビジュームのつぼみを開花させるというわたしにしては、大快挙に胸を躍らせ。 植物の生命力の素晴らしさに感動していた1月1日。今年はきっといいことが待っている。そう信じ花の咲く頃を楽しみに過ごした冬の日々。それが。たった1日で、わたしの全ての世の中が一変しました。3月11日。午後2時46分。わたしは実家のある岩手県釜石市に家族で居ました。おばあさんのお葬式があったからです。通夜を過ごし。火葬の準備も葬儀の段取りも済ませ。母と一緒に。釜石市街地の銀行へ葬儀代金を工面するために出掛けました。それが。3月11日。午前11時。銀行を廻り。街に来たのだから、お昼も過ぎた時間だし。どこか食事に入ろうかと、も。思ったのですが。今は葬儀の段取りをしているので。食事をしている場合じゃないよね。って。ことで。食事は取らずに、釜石の街をでました。そして。おばあさんの葬儀をする葬祭会館へもどり。少し休憩していた午後2時46分。今まで感じたことのない大きな地震が起きました。葬祭会館は二階建てでしたが。とても立っていられない状態でした。綺麗に飾られていた祭壇や、いろんなものが倒れてきました。天井のガラスが粉々に落ちていました。これは大変なことが起きた。そう思いました。腰が抜けて歩けない母の手を握り。葬儀屋スタッフと一緒に外に飛び出しました。それなのに、地震はまだ収まらず。いつまでも続きました。寒空の中、葬祭会館の外で地震が収まるのを待っていましたが。すぐに大きな余震が何回も続き、気が休まることはありませんでした。外の状況は、自分が立っている廻りのことしかわからなかったので。いったい。どうなってるんだろう?と思いました。携帯電話も全く通じませんでした。が。携帯電話は通じなくとも。ワンセグは見ることができるのでは?と、思い。ワンセグを見ました。すると、そこには陸前高田や宮古市が津波に流されている信じがたい映像が流れていました。それでも、釜石市の映像が無かったので。釜石市街地が津波で、今、この時間同じように壊滅状態になっていることを、わたしはまったく知りませんでした。会館は既に、居られる状況じゃなかったので。おばあさんの葬儀は一旦延期ということにして。地震で、斜めに傾いた棺桶をとりあえず元に戻して。おばあさんの顔を見て「ごめんね。。。ちゃんとお葬式はあとであげるから、それまで待っててね」と。言って。自宅に避難しました。自宅も電気ガス電話はダメで、水道だけ使えました。その後一週間。その生活を釜石で過ごしました。三月の岩手は、寒かったです。。。。一週間の間に、おばあさんの火葬は。緊急特別許可が下りて、なんとか、火葬だけは済ませお骨にしました。そして。わたしたちは。なんとか残っているガソリンを大事にして今現在住んでいる岩手県北上市のアパートに。母親も一緒に連れて、戻ってきました。そうしたら。北上市に置いたままの水槽の金魚も。シンビジュームも。どちらも無事でした。シンビジュームは当然倒れていましたが花枝も折れることはなく。更に花を咲かせて居ました。 植物の命。動物の命。全ての命。あらゆるものの命。いろんな命を知りました。 おばあさんのお骨は。その後、3月末の土曜日に一関市にあるお寺で延期したままの葬式をわたしたち家族のみで行い。おばあさんの本家のお墓に納骨してきました。その後。母はガス、電気、電話の供給が回復した釜石市に戻るというので4月2日に、釜石市に送っていきました。余震は何回も続いてるけど。母も元気を取り戻し釜石市で暮らしています。ただ。釜石市内でも。わたしの実家のある町と津波被害のあった市街地では、まったく状況が違います。壊滅的な被害に遭った市街地のほうは。未だに。3月11日の時のまま。道路もがれき撤去は。少しずつ自衛隊の方々の多大な努力と市民やその身内、そしてボランティアの方々で変わって行ってます。が。それでも。わたしが住む北上市から。釜石市に戻ると。未だにテレビのニュースで見ている映像が現実として目の前に現れます。3月11日から、東北の街町が。少しずつ変わっていくまでに、いったいどれだけの年月が掛かるのだろうかと。いつもそう思って帰ってきます。はじめてのシンビジュームを3年目で開花させ。およそ。60日間楽しみました。が。花は今年も成長します。またいつか新しい花を咲かせる為に。今日、花茎をハサミで全部切って花瓶に移しました。 蘭の花というのは。努力して育てていても、毎年開花しないこともあるのだそうです。むしろ、それが普通なのだそうです。わが家のシンビジュームも、今年やっと咲きましたが来年は咲かないのかもしれません。それでも。いつかまた花が咲くことを願って、これからもマイペースで育てて行こうと思います。