はは、にじのはしをわたる。
昨日、母が虹の橋を渡りました。
88歳でした。
昨年時々嘔吐することがあり、食事量を少し減らしてトロミ付き水分とゼリー系メインでなら介助で食べることができてきました。
太田胃散を常用していて胃腸が丈夫ではなかった母に、胃腸薬が処方されたのは当時の担当ケアマネの方から再三当時の往診医に伝えてくれていたのに、胃腸薬が処方されるのには2ヶ月後くらいかかりました。嘔吐は治まってきました。
でも段々と体力が落ちてきて、左上肢から段々と拘縮が始まって、右手も拘縮してしまいました。車椅子に乗る時間も減り、寝たきりになりました。
発音が不明瞭でも少しは喋っていたのが声を発することもなくなりました。
大腿骨転子部骨折で入院して手術。
退院して間もなく、グループホームから特養に移り住みしてまだ4ヶ月目でした。
特養から、食事と水分の摂取量が減ってきて、離床するのも疲れてしまって負担になることと
、疲れると嚥下ができずに口に溜め込んでしまうと言う連絡があってから、間もなく誤嚥性肺炎になったという連絡がありました。
特別に短時間の面会の許可をもらい、弟と面会に行ったときには、声をかけると目線は追ってくれてもやせ細って小さくなっていました。
相変わらず目力は強く、表情は険しかったです。
今考えてみると、とても心身ともに辛いけど必死に頑張って生きていたのだと思います。
そして、抗生剤を飲んでも、なかなか解熱せず、37℃より下がらない、薬を飲むのも、水分ゼリーや栄養補助食品ゼリーもやっと食べている状態で、食事も出してもらっていたけれど手を付けることができないことが続いて、衰弱してきたため、特養での往診医から電話で状態説明があって、特養でお看取り対応が決まったのが一昨日の学校でのプレゼン資料作りの相談をクラスメートとしている最中でした。
そして
私が仕事で薬の確認作業をしていると、職場に電話がありました。
特養からでした。
呼吸停止しましたと。
びっくりして、覚悟はしていたものの、昨日の今日で何で?とパニックに。
上司に事情は、予め説明していましたが、まさかのお看取り対応になった翌日に急変するなんてと頭の中が真っ白になりながらも薬の確認作業を済ませて、服薬確認の注意点を介護職の責任番の人に託し、休みだけど同僚の看護師に連絡が付いて、私と入れ違いで出勤してくれることになりました。
お看取り対応になってすぐ急変することがあるのはわかっていたつもりでしたが、
まさか、母の事はもう少し先だろうと思っていました。
弟と母の弟にあたる叔父に連絡して、
もうじき卒業する介護美容研究所の同級生で修了実習のグループのクラスメートにももしかしたら修了式に出席できないかもと連絡を入れたりバタバタしながら特養に向かいました。
昨日は実は孫の幼稚園入園式でした。
孫の可愛らしい写真と息子と嫁と孫の家族写真が息子からLINEで届いた後、ちょっと間をおいてから母のことを伝えました。
入園式を終えてそのまま3人で来てくれることになりました。弟も事情を職場に話して早退して特養に来てくれました。
叔父は大切な用事があって、来ることはできませんでしたが、連絡は何度か取りました。
以前自分が独居なので何かあったときのため、母も少しずつ衰えてきていたので、相談をしてあった葬儀社に連絡したり、知りあいのお坊さんに連絡。お坊さんにはご導師と戒名(法名)をお願いしてありましたし、母とも面識はありました。
母に会いました。口はなかなか閉じなかったけど、穏やかな顔をしていました。
不思議と涙は出ませんでした。
なんか現実味がないというか、受け入れている様で受け入れきれていなくて。
孫にも顔を見てもらいました。
もしかしたら、最後に面会したときに、孫の幼稚園の入園式の日にちを母に話したのが聞こえていて、なかなか会えなかったから会いたくて会いに行ってそのまま戻らずに
24年も先に行って待っている父と、母と仲良しだった伯母に会いに虹の橋を渡っていったのかもしれません。
自分の思うように動けなくなり、思うように声を発したり喋ったり歌ったりができなくなってとても辛かったと思います。母はよく頑張って生きていました。
ようやくゆっくり休めるのかと思うと、
寂しいし、してあげたいことは沢山あるけど、母にとっては良かったのかもしれません。
葬儀の日程は決まりました。
葬儀が終わってから、その週末には介護美容研究所の修了プレゼンと修了式が控えています。
それが終わったら、私は、どうなってしまうのだろう?