ハイドン・ソナタ by フィゲイレド
きらびやかなのに、どこか遠くからのように響くハープシコードの音。フィゲイレドが弾くハイドンのソナタを聴いた第一印象はそのような感じです。彼がまだ元気だった2008年に出たCDに収められているのはHob:XVI, 37、32、20、23の4つのソナタ。最初の2曲は、先に紹介したコルティの新譜でも演奏されていて馴染みがありましたが、後半2曲は初めて耳にするものでした。特に深い印象を持ったのが、Hob:XVI, 20、ハ短調のソナタ。第1楽章を聴くと、冒頭でいきなりカルロス・セイシャスのソナタを聴いているような錯覚を覚えます。かと思えば、時にベートヴェンを思わせるようなフレーズも。とにかくなんとも奥深い森を歩いているような音楽世界が立ち現れます。(間違いなくハイドンのマスターピースと呼ばれるにふさわしい作品の一つ。フィゲイレドの名演も光ります。)このような作品を前にすると、ハイドンのソナタがもっぱら初心者のレッスン用として用いられて来たという事実とのあまりの落差に呆然としてしまいます。実際、冒頭のトラックに置かれたHob:XVI, 37は全音のソナタ・アルバムにも収まっている有名なものですが、ハイドンという音楽家をこのような「軽い」作品で代表させて事足れりとしている近代音楽教育というものの功罪は改めて問われるべきではないかと強く感じます。アンドレアス・シュタイアーは、音楽学という学問が国粋主義の台頭した19世紀に成立したために、音楽家・作曲家の国籍(それも19世紀以降の国民国家に基づく)という瑣末なことに囚われていることを批判していました。これに加え、音楽教育に至っては、19-20世紀における音楽の大衆化と、産業革命後の進歩主義的歴史観に支配されたのか(?)、クラシック音楽も古典からロマン派、そして近現代へと直線的に「進歩」しているかのような錯覚が蔓延し、一人の作曲家の中で完結している音楽世界というものに思いが至らなかったようです。そこではパパ・ハイドンはベートヴェンの単なる先触れで、軽いユーモアを信条とする音楽家というレッテルを貼られてピアノ教材の世界に封じ込められてしまった、というのが亭主の荒っぽい見立てです。こうして振り返ると、ハープシコードによるハイドンの旅は、亭主にとってある種のデバンキングの過程であり、ピアノ教材という手垢にまみれた彼の音楽を本来の姿で初めて耳にするという邂逅の旅路でもあります。コルティやフィゲイレドの演奏を聴けば、Hob:XVI, 37のソナタもその印象を一新するであろうこと請け合いです。