「イエスとその時代」 by 荒井献
新約聖書や原始キリスト教の研究で知られる荒井献さんの訃報(8月16日)が届いてから二月あまり経ちました。(1930-2024、老衰のため94歳で旅立たれたとのこと。)亭主は荒井氏のことを個人的には存じ上げないものの、大学の教養部に通っていた頃は、彼が教員として在籍(1969-1991)していたことは知っていました。理系クラスだったこともあり、残念ながら彼の講義を聞く機会はありませんでしたが、もしかすると大学キャンパス内のどこかですれ違っていたかも?当時は彼の代表作(?)のひとつである表題の著作が出版されてまだ4-5年という頃で(岩波新書、1974)、もう一つの代表作である「原始キリスト教とグノーシス主義」(岩波書店、1971)とともに大学生協の書店で買い求めた記憶があります。(亭主の手元にある岩波新書の奥付を見ると1978年12月10日、第7刷とあり。)「イエスとその時代」は、新書というお気軽な体裁とは裏腹に、緻密な研究の成果を踏まえた大変高度な内容の学術書ともいうべき著作で、ロクにモノを知らない学部新入生には難解で歯が立たない代物でした。そこで、(不届きにも)訃報をきっかけに、ページが赤茶けた古本を45年ぶりに書棚から引っ張り出して眺めることに。本書は全七章からなりますが、改めてページをめくってみると、第1章「方法」だけは読んだ記憶が蘇ってきました。冒頭を改めて読み返すと、本書が書かれた動機の一つとして、彼がその前年(1973)に「最近のイエス研究」と題する文章をA新聞の文化欄で発表したところ大きな反響を呼び、しかもその中で宗教関係者からの意見の大半が非常にネガティブなものだったことが書かれています。ここで問題になっている荒井氏の立場は、歴史上の人物としてのイエス=「史的イエス」と、キリスト教の信仰対象としてのイエス=「宣教のキリスト」を区別し、新約聖書をはじめとする経典文書を歴史資料として読み解くことで前者に迫る、というもの。これに対し、宗教関係者たちからは「『イエス・キリスト』のような存在は、信仰を媒介として実存的にしか把握し得ず、歴史的方法をもってしては、究極のところキリストを『物』に化してしまうのではないか」という批判が湧き上り、彼としてもこれに応える必要を感じたようです。(宗教的権威に守られた既存の神学を奉ずる人たちが、「史的イエス」の追求をある種の自由主義神学への道とみなしたとすれば、ここにも先週触れた「権威主義対自由主義」の構図が透けて見えます。)もう一つは、ちょうどこの年に遠藤周作の著作「イエスの生涯」が刊行され、そこで遠藤がイエスや彼の関わった事績に関して「事実」と「真実」を区別し、後者を前面に押し出す、という扱いが恣意的で中途半端なものに見えたことから、歴史学者として一言物申す必要を感じたことが書かれています。実はこの著作、狐狸庵こと遠藤周作のファンだった亭主も手に取り、上記のような区別にご都合主義的なものを感じたことを今でも思い出します。(もちろん、当時理系志望の中高生ぐらいだった亭主にそれほど深い問題意識はなく、単に「真実」なるものの定義が胡散臭く感じたという程度のものでしたが…)いずれにせよ、本書の前提となる立場は「史的イエス」の真実に迫ることと「宣教のキリスト」を信じることの間には何の矛盾もないということでしょう。(実際、著者は敬虔なキリスト教信徒でした。)この状況は、古楽における音楽史的研究と演奏の関係にもよく似ています。例えば、ひとつの音楽作品について、手稿譜や出版譜の調査やその異同確認といった原典批評、さらには作曲者の属する時代における音楽的環境(楽器の構造や演奏習慣、他の音楽家との関係など)を調べることは、作品そのものの演奏とは何の矛盾もなく、むしろ現代人である演奏者が必要とするイマジネーションに資する有用な知見と言えます。荒井氏に対する宗教者の批判は、古楽、特にその音楽史的研究に対して、現代クラシック音楽の関係者が時に行う批判(「博物館のような仕事」という揶揄がその典型)を思い出させるものがあります。(「芸術」はTPOを超越する、といった考え方はいまだに根強いものがある?)ちなみに、本書の「方法」の部分で重要な部分を抜き出すと以下のようになります。著者はまず福音書の伝承について(ブルトマンという神学者に倣い)4つに分類します。A イエスの言葉 A1 アポフテグマ(イエスの言葉に、伝承の過程で、言葉の語られた史的状況が、物語形式で事後的に付加される) A2 主の言葉(状況描写なしに、単独に伝承されたイエスの言葉)B 物語資料 B1 奇跡物語 B2 歴史物語そして、それぞれの伝承の背景や、想定される編集過程を通して、歴史上のナザレのイエスという人物の姿を明らかにしようというわけです。それにしても、イエスに関して確実に史実と呼べるものが実はそれほど多くはなく、十字架上の刑死ぐらいしかない、という話にはびっくりさせられます。上記4つの分類についても、聖書の内容がこのように分けられるということ自体が驚きで、本書を読むと新約聖書が「神話」として通り一遍にしか理解されていないことに気付かされます。ちなみに、亭主が荒井氏のもう一つの著作「原始キリスト教とグノーシス主義」をも手にした理由は何だったかというと、当時ハマっていたユング心理学に関係して興味を持っていた錬金術関係の文献の中に「グノーシス主義」が頻出していたことによります。グノーシス主義とは、人が宗教者の仲介なしに直接「神と交わる」といったある種の神秘主義思想です。当然のことながら、これは教会やその関係者にとっては(自分たちの存在理由を否定されることもあって)不都合な信仰形態ということもあり、異端とされてきました。(錬金術師はこのような神秘体験を通じて彼らの「賢者の石」を手にいれる方法を知ろうとしました。)そんな中で、荒井氏は原始キリスト教時代のグノーシス主義について、古代文献の調査からそれが当初は異端ではなくキリスト教の正統の流れを汲んでいたことを明らかにしたとのこと。というわけで、学生時代に挫折した読書、せっかくの機会なので秋の夜長に再挑戦してみようかと思っているところです。