田中一村展
今日は衆議院議員選挙の投票日ですが、投票に行くのは後回しにし、午前中に東京都美術館で開催中の表記展覧会に足を運びました。亭主がこの画家のことを知るきっかけになったのは、たまたま連れ合いが見ていたNHKの「おとなEテレタイムマシン」という番組(9月28日放送)。取り上げられていたのは大昔(1984年)に放送された「日曜美術館」で、「美と風土 黒潮の画譜 〜異端の画家・田中一村〜」という番組でした。今となっては内容はよく思い出せないものの、南国の植物や風景を描いたいくつかの作品がアンリ・ルソーの密林の風景を思い起こさせるものがあり、なんだか面白そうだという印象を持ちました。実はこの40年ぶりの再放送、ちょうど9月下旬から開催中の本展に合わせた宣伝の一環だったようです(NHKも展覧会の主催者として名を連ねています)。今朝放送された「日曜美術館」でもこの展覧会がいよいよ取り上げられるとあって、会場が混み合わないうちに観覧しようと朝から出かけることに。田中一村(1908-1977)は栃木出身の日本画家で、こんにち代表作とみなされている南国の風物を描いた作品群が制作されたのは彼の晩年、50歳を過ぎて奄美大島に渡ってからでした。一方、彼は父親に絵の手解きを受けた幼少期から画才を発揮し(神童扱いされていた)、十歳に満たない年齢で描いた南画風あるいは文人画風の作品が結構残されています。加えて、これまで謎の空白時代とされていた、二十歳代半ばから終戦後千葉に移り住むまでの頃の作品や資料が近年になって続々と見つかり、画家としての全体像が明らかになりつつあるとか。この状況を受けて、今回の展覧会では一村の生涯を活動拠点とリンクする3つの時代、すなわち少年期〜20歳代前半(戦前・東京)—20歳代後半〜50歳頃(戦中/戦後・千葉)—50歳以降(1958〜・奄美)に分け、作品と資料(手紙など)をほぼ年代順に並べることで、彼の作風の変化が一目でわかるような展示となっています。南画や人文画を器用に真似る天才少年として出発し、当時できて間もない東京美術学校にストレートで入学するも半年も経たず退学したというエピソードからは、既にプロとして活動していた若い一村の自信に満ちた姿が想像されます。ところが、オトナになった彼の絵は(一点を除き)中央画壇のコンクールからはハジかれ続け、小さなサークルの中でしか認められないという不遇の画家でもあったようです。そこで画壇には背を向け、自分が描きたいものだけを追求する、という修行僧のような道を選ぶことに。(一村の再評価の契機となったと言われる1984年のテレビ番組のタイトルにある「異端の画家」も、その辺りに由来しているのでしょう。)一村と同じ歳で、東京美術学校の同期でもある東山魁夷(1908-1999)が、戦後に風景画家として世間の注目を集め、名声と栄誉に包まれた画家人生を送ったのとは何とも対照的です。亭主が想像するに、一村の前半生における不遇は、いわゆる器用貧乏が招来したように思われます。その結果、二十歳代半ば以降は自分のスタイルを模索し続け、経済的にも苦境が続いた様です。その間、縁あって奄美の自然に出会うことでようやく自分が描きたいものを描きたい様に描くことができるようになった、というわけです。実際、60代に物した10点あまりの風景画はいずれも独自の絵画世界を体現。特に素晴らしいのがヤシ科の高木であるビロウの葉の描写で、その幾何学的形状の美しさは見るものを圧倒します。(東山魁夷の代表作にも匹敵する?)それにしてもこの展覧会、実際に回って気づいたことには展示物が300点を超える文字通りの大回顧展で、目玉でもある奄美時代の作品群にたどり着く頃にはかなりヘトヘトの状態。入り口付近を除いてそれほど混んでいなかったのは幸いでししたが、一通り見終わって会場をでると2時間を優に超えており、久々に足が棒になるという感覚を味わいました。というわけで、出かける前には「展覧会を見終わった後はついでに買い物でも」と思っていましたが、会場を出るなり上野駅に直行、そのまま家路につくことに。電車の中でも人知れぬ一村の画家人生についていろいろと妄想を膨らませる亭主でした。