米軍基地の面影
先週の話ですが、地元の市立博物館で特別展示を見てきました。関西に居住していた者にとって、関東に移り住むと実感するのが、軍の施設が異常に多いということです。関西では大阪・信太山や兵庫県の伊丹、京都府の宇治と、陸上自衛隊の駐屯地はあるものの、海自・空自はなく、米軍の施設もありません。ところが関東は、歴史的にも首都を防衛する目的だったのでしょう、戦前から至るところに基地がつくられており、戦後のGHQ下で米軍に接収されるという時期を経て、返還後も自衛隊の基地として存在していますし、横須賀基地や横田基地のように、引き続き米軍の施設として運営されている場所もあります。関西よりけっこう基地臭のするエリアなのです。で、僕の地元、埼玉県狭山市内にも航空自衛隊所属の入間基地があり、狭い土地ながら2,000メートル級の滑走路があって、茨城県の百里基地とともに首都圏の空を防衛しています。昨年の東日本大震災直後は、救援物資を運ぶためでしょうか、ひっきりなしに輸送機が北の方に向けて離着陸を繰り返していました。そして11月3日の航空祭は基地内を地元に開放し、有名なブルーインパルスの曲芸飛行も披露されています。この入間基地が開設されたのは大正年間で、当時は日本陸軍の航空士官学校でした。太平洋戦争で日本が連合国に敗けると、すぐに米国空軍に接収され、名称は『ジョンソン基地』に改称。昭和48年に日本に返還されるまで、基地内は米国の管理下に置かれていたそうです。米軍人が家族と住むエリアも基地周辺に設営されていたのですが、その一つに『ハイドパーク』と呼ばれる場所がありました。現在は狭山市が運営する緑地公園『稲荷山公園』になっている場所です。稲荷山公園は桜がたくさん植わっており、今はお花見のスポットとして知られているのですが、戦後から30数年前までは米国人の居住地として、いかにもアメリカナイズな木造家屋が建ち並んでいました。その、在りし日のハイドパークとジョンソン基地を、写真や保存資料で偲ぶ特別展示が博物館で行われており、近代の歴史に興味のある僕としては「行くっきゃない」、というわけで、博物館を訪れました。展示物の写真撮影は原則禁止なのですが、展示室センターに鎮座していたハイドパーク全盛時のジオラマは撮影可でした。現在は公園内の建物はすべて取り壊されていて、道路などの遺構が残っている程度です。下の写真は、上写真のジオラマと同じ方向から見た、現在の稲荷山公園の姿。みごとにふつうの緑地公園ですよね。ただ、公園周辺の住宅地内には、今もアメリカ的な木造家屋が何軒か残っていて、現在も住まいとして使われていたりします。このハイドパーク、日本に返還された後もしばらくは建物が現存し、管理を移管された狭山市は一般の賃貸住宅として住人を募集。すると、アメリカの薫りが残る雰囲気を好むクリエイティブたちがこぞってこの地に移り住み、ミュージシャンやデザイナーを輩出しました。有名どころでは、元YMOのメンバーである細野春臣氏や、松任谷由実の旦那さんの松任谷正隆氏が居を構えていた時期があるそうです。わが狭山のさまざまな歴史の一端を担う、ジョンソン基地とハイドパーク。当時の様子を知らないだけに、興味は尽きません。【2013年カレンダー】 航空新聞社 【航空自衛隊の翼 カレンダー】 1,785円 422×594mm価格:1,785円(税込、送料別)ということで、今年の日記はこれが最後。「毎日投稿」をモットーに書いてきました。時には投稿ができずに2~3日分を一気に投稿したときもありましたが、カレンダー上では毎日投稿が実現しました。来年も引き続き毎日投稿をめざして書き続けます。