悔悟。
金曜日、義父の母方の従妹が亡くなり、義母は、義父は連れて行きたくない、近隣の近親者とお通夜に行きたい、と言う。では、その間、義父を看に行こう、と言うと、最近、とみに就寝が早くなったから、夕食も済ませて、寝かせてから行くから大丈夫、と言う。一瞬、不安に思ったが、夜に、義父ではなくなる義父とふたりきり、というのを避けたい気持ちが勝つ。2時間強のことだし、と自分にも言い聞かせ、了承してしまった。夜半、動転した義母から電話があり、要領を得ず、飛んで行く。義父はごぅごぅと眠っている。あたりには、食べ物が散らかっている。そして、一升瓶が転がっていた。夕食を済ませて、寝室で横になるのを見届けて出掛けたのに、と義母が言う。「 お義母さん、お義父さんはお義母さんを探されて、 おなかが減られたんですよ。 火を遣われないで良かったですね 」と言いつつ。とうとう自分が食べたか食べなかったかもわからなくなった、と愕然とする。義父は口のきれいなひとで、「 男子厨房に立たず 」を旨とし、ご飯は完璧に配膳されるまで、決して手をつけようとしなかった。間食もこちらが用意して、お盆に乗せて持って行かなければ、何も口にしない。冷蔵庫を開けて、何かものを出す、ということは一切ない。自分で茶碗にご飯をよそうなど、考えたこともなかったようだし、鍋から皿へつぐ、ということも一切しなかった。だから、義母の入院中、義父の食事は、ずっと傍らで給仕しなくてはならず、結構手を取られたものである。それが、鍋の蓋をあけ、煮物を引き摺りだし、炊飯器の蓋をあけ、鳥がつついたように、ご飯をつついている。まだ、手掴みでやったのではないようであったのが、救いかも知れない。義母の入院中は、義父とふたりきりで暮らした。大好きなお酒を呑むと、症状が酷くなるため、夜は日本酒を隠し、夜間徘徊しようとするのを寸前で止める日々だった。義母が退院し、回復していくとともに、義父も落ちついて来てたので、通院の度に若干の進行は認めるも、少々、油断が過ぎた。焦燥感と苦い後悔と。土曜日、義父が歩けない、という。病院へ、と言ったが、なんとかトイレには連れて行けるから、1日様子をみたい、と義母が言うので任せる。日曜日、義父の右腰から太ももまで20cmの蒼痣が出る。おそらく金曜日の夜、酔って何処かに打ちつけたらしい。「歩けない」といった原因が判ったので、ほっとする。油断が過ぎた。金曜日に、私が無理やりにでも義父を看れば良かったのだ。…想像しただけでも動悸を打つが。守られている。 義母も、義父も、私も。致命的、とも言える油断にもかかわらず、これだけで済んだ。義父には蒼痣をつくるほど、痛い想いをさせてしまったが、これだけで済んだ。私は守られている。 必ず、父が守ってくれている。ふぁいと、ふぁいと!!