64回目の 原爆忌
祈。 祈。 > 平和。 世界平和。 世界恒久平和。 希。 > 核廃絶。 毎年毎年、8月が近づくと、広島はヒロシマへと変貌する。 夏の暑さは、8月6日の近付く 悲しい 標。 6月23日 沖縄「 慰霊の日 」、2つの原爆忌、終戦の日。 この4つの日だけは、 全国民が服喪する、鎮魂の日でありたい、と こころから想う。 それは、鎮魂の想いとともに、2度と過ちを繰り返さないために。 己れが、あの戦争を経て、今、自分たちが生きて在れることに感謝するために。 強制ではなく、皆が自然にこころからそう思える。 手を合わせる想い。 頭を垂れる想い。 そんな国であるためには、何をどうして、どう在ればいいのだろう。昨年、声をあげてくれた職場の後輩の想いを受け継ぎ、平和を祈念し、6人全員で折鶴を折り、きっちり千羽 の 千羽鶴を捧げる。鶴を折ったから、といって、何がどう変わる訳でもあるまい。けれど、戦没者を悼み、平和を願う、民草の祈りのこころが込められた折鶴のひとつひとつに。それを折っていく過程において。それを形として目にする、その瞬間において。祈りのこころは共有され、ひとは想いを新たにし、また、一歩、前に踏み出して歩いていけるのではないか。想いを等しくするひとびとの愛(かな)しい想いに背中をおされて。、、、鶴を折るだけで、昨年の想いが経ち返る。それは 日々、流されていく自分にとって、とても 大切なことではなかろうか、と気付く。鶴を折りながら、鶴を折る自分、その自分の足元、自分の生きて在る場所。しっかり見つめ 考える時間を重ねること。 オキナワ、ヒロシマ、ナガサキが、 遠い過去の歴史物語として風化し、 忘れ去れられて行くことの恐ろしさをこころから憂う。 あの戦争で、失われたいのちは、全て等しく同じ。 戦地で落とされたいのちも、空襲の被害にあわれたいのちも、 飢えて落とされたいのちも、 操を守れと教えられ、自死されたいのちも。。。! しかし、被爆者の染色体にまで異常を起こさせる核の被害は、 一過性のものではない、ということで確かに特別なものであり、 全世界において、2度と決して許してはならない、人類の過ちである。 核兵器による被害者は、ヒバクシャと呼ばれ、 被爆者、というだけで、その子孫まで 様々な偏見、差別、不安をも背負わされてしまうのだから。 ひとつのいのちについて考えることは、 多くのいのちについて考えることにつながる。 ヒロシマ・ナガサキを過去の悲劇に終わらせてはならない。 「 戦争被害 」の象徴としてとらえ、考え続けて行かねばならない、と思う。 広島市から離れたこの地では、平和教育に力を入れる広島県の教育が 『 偏向教育 』である、という文科省の是正指導以来、 原爆、戦争については、実体験者でなくては語れない、と禁止し、 小学校の社会見学コースから平和公園が外され、 中学校の修学旅行は、沖縄ひめゆりの塔から東京TDLになった。 「 戦争反対 」と言った瞬間に、それは「 運動 」となり、 「 思想 」というベクトルを持つものであるから、 教師は、口にしてはならないのだ、と、言う。 2度と同じ過ちをしない。 そう祈る、ことは宗教なのか? 願う、ことは、過激な思想なのか? 決意すること、は、「右」やら「左」やらを決定することなのか? 断じて 否。 先生方は、「 ぎりぎり 」 の ところ で、 こそこそと 子どもたちに読んであげる 本 を探す。 何かを感じ、何かを考えて欲しい、と。 風化させない! それぞれのひとびとが、それぞれの立場で。 さまざまな観方をし、とらえつつ、 それぞれの平和について、考え続けられるように。 にんげん、として考え、思惟を重ね。 できること を できる形 で。 声をあげなきゃならんときは、声が出るように。 ヤらなきゃならん ときは ヤることができるように。 いつだって、この足を。 前に。 前に。。。!麻生氏の 「 あいさつ 」。風化 されてませんか?ちっとも「 誠 」を感じられなかったのですが。 ● 『 夕凪の街 桜の国 』 ● 『 ヒロシマ前夜に想うこと 』 ● 『 夕凪の街 桜の国 ふたたび 』 ● 『 ナガサキの日に 』 ( 『 生ましめんかな 』 ) ● 「 みたび『 夕凪の街 桜の国 』」