新 緑仙の日々是好日(大奥‥十代将軍家治)
江戸幕府10代将軍家治(在位1760~86)。幼名竹千代。9代将軍家重 の長子で、母は梅渓氏お幸の方。元文2年(1737年)5月22日生まれで1760年(宝暦10)9月に将軍就任。徳川家治の父である9代将軍「徳川家重」は、生まれつき虚弱で不肖だったことから、八代将軍吉宗は孫の徳川家治にかなり期待し、徳川家治が名君となるよう帝王学を徹底的にたたき込んだことが伝えられている。徳川吉宗は、徳川家重に将軍職を譲ったあとも大御所として実権を握り、徳川家治を膝元に置いて寵愛した。徳川家治は、1741年(寛保元年)の4歳で元服し、権大納言(正三位?)に叙任。幼い頃から聡明で文武の才が高く、吉宗が教えることをきちんと理解したと言われるほど出来の良い子だった。(江戸幕府の将軍様はいつの時代のお方でも「絵」がお上手です。家治も幼い時から上手だったようでこの絵は家治が描いたものです。)ちょうど、今、フジテレビで「大奥」を放送しているが十代将軍の治世である。嫡男は産まれるには産まれるが長子の徳川家基は、側室の子供であり男子のいなかった家治の御台所倫子が養育し成長する。ただ、残念なことに数え18歳の時、鷹狩りの帰りに急に体調を崩し3日後に死んでしまう。早逝してしまったことから「幻の十一代将軍」とも言われている。何故、亡くなってしまったのか田沼意次や一橋家による毒殺説などが今でも囁かれている。本当はどうだったのか調べてみるのもよろしいかと‥十代将軍家治は1786年に没するまで27年間の治世であり、側用人田沼意次が実権をにぎり,新時代への進取・積極的気風もあったが、天災や飢饉が相次ぎ、政治の腐敗、社会の退廃、疲弊など体制の危機が進行する時代であった。それと、TV放送でもそれとなく演じているがこの頃から、日本はオランダをはじめとしていろいろな外国と関わり合いを良くも悪くも持つようになってくる。災害、疫病、飢饉で子供が少ない‥国費の懐具合はあまり芳しくない‥裏金作りが正当化されて忖度、賄賂、私服を肥やす輩が増える‥なかなかに取り締まれない‥あれこれは、十代将軍家治の時代の話ですが‥世の中ってそんなに変わらないのね‥昨日1日ゆっくり休んだので今日は、少し元気が戻ってきました。良かったにほんブログ村