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カテゴリ:最近読んだ本
豪華蒸気船で太平洋を横断 2人の旅のなかで、最長区間となったのは太平洋横断航路である。このころ、太平洋や大西洋を渡る客船の所要時間を短縮する競争が盛んで、名だたる船会社は社運を賭けてスピードの速い船の建造に取り組んだ。 西回りで世界一周をめざしたエリザベス・ビズランドは、ホワイトスター社の客船オセアニック号で太平洋を渡った。1989年11月21日にサンフランシスコを出港し、16日間の航海で横浜港に着いている。 東回りのネリー・ブライは、エリザベスと同じオセアニック号で1990年1月7日に横浜を出港した。そして、15日間の航海でサンフランシスコ港に到着している。 「ネリー・ブライ」 船会社は、船の速力とともに船内の豪華さも競い合った。船は近代文明の素晴らしさを体現していた。オセアニック号は「航海する宮殿があるとすれば、それはまさにこの船のことだ」とまでいわれたという。 「航海する宮殿」で、1等船客たちは、輪投げやトランプ、チェスなどに興じた。また、高級料理を食べ、床の高い船室に寝起きし、長い船旅を満喫した。(ただ、2人とも大時化にあって大いに苦しんでいる) その一方で、階下の3等船客は劣悪な環境に置かれていた。3等の船賃は1人45ドル、食費は1日10セントに満たなかった。1等、2等船客とは居住区も区切られ、不衛生でいつもいやな臭いがしていたという。太平洋航路における3等船客の多くは中国人移民だった。ある船員は、次のような言葉を残している。 「なにしろ連中ときたら、日に三度、炊いた米に干し魚かカレーを付けてやれば、それで十分なんですからね」 船客はこのように1等から3等までに区画されていたが、船内で働く人々にも階層があった。その一番下に位置づけられていたのは、高温となるボイラー室で石炭まみれになって働く火夫たちだった。 「火夫はひとりあたり平均して1日2トンの石炭を炉にくべた。彼らは数分おきに手を止め、甲板から新鮮な空気が流れてくる格子の下に行って息を整えた。だが、こうした贅沢が許されるかどうかは、蒸気圧力計の矢印がどこを指すかにかかっていた。圧力計がある数値より下を指すと、休憩をとる余裕はなくなる。エンジンを十分に働かせ、1日の航行距離を縮めないために、蒸気圧力計はつねに一定の数値以上にたもたれていなくてはならない」 ネリー・ブライは、1日でも早く世界一周を達成するため、船のスピードをあげるように船の技師にせき立てたという。オセアニック号の1等航海士はネリーに、「きっと新記録を出してみせます」と約束した。こうして、ボイラー室の火夫たちの労働はさらに過酷になっていった。多くの客が恐る恐るボイラー室を見学したというが、船を急がせたネリー・ブライは一度もボイラー室に足を運ばなかったという。 火夫たちは4時間働いて8時間休んだといわれる。勤務時間が終わると甲板に上がり新鮮な空気を吸った。 「彼らはダンガリーの汚れた作業ズボンと汚れたフランネルのシャツ、そして重い長靴という姿で立ち、疲れ切ってむっつりと押し黙ったまま、日の光に顔をしかめるのだ。富める者と、貧しき者の差が、これほどはっきりと表れるのは、豪華蒸気船の甲板をおいてほかにないだろう」 豪華客船の船内は、当時の世界の階層の縮図だった。このことに、ネリーもエリザベスも記者でありながらほとんど関心を払っていない。この当時、アメリカは世界の海を支配して繁栄する大英帝国のあとを追っかけていた。当時のアメリカの価値観からすれば、2人の無関心さは無理はないのかもしれない。 参考:「ヴェルヌの『80日間世界一周』に挑む」(マシュー・グッドマン:金原瑞人、井上里訳~柏書房 2013年) お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2014/02/08 10:53:20 PM
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