2018611 ランダム
 HOME | DIARY | PROFILE 【フォローする】 【ログイン】

Shige & Happy の 気まぐれ写真日記

Shige & Happy の 気まぐれ写真日記

【毎日開催】
15記事にいいね!で1ポイント
10秒滞在
いいね! --/--
おめでとうございます!
ミッションを達成しました。
※「ポイントを獲得する」ボタンを押すと広告が表示されます。
x

PR

Calendar

Comments

Shige&Happy@ Re[1]:実践しているデンタルケア(12/24) mabo400さんへ 一旦始めると、毎食後やら…

Free Space

設定されていません。
2014/03/13
XML
テーマ:読書(8581)
カテゴリ:最近読んだ本

1900年のパリ万国博を中心に

 1900(明治33)年、熊本の第五高等学校英語教師だった夏目漱石に国費留学の辞令が出ました。漱石は妻と2歳の長女を東京の妻の実家に残し、9月8日、ドイツ客船プロイセン号で横浜を出港しました。漱石33歳のときのことです。

 プロイセン号はシンガポール、スエズ運河を経て、10月19日にイタリア北部のジェノバに着きました。そこからは鉄道でパリに向かい、10月21日にパリに到着しています。

 漱石の留学先はイギリスのロンドンでした。しかし、当時ちょうどパリ万国博覧会が開催中だったので、同行した他の4名の留学生とともに1週間ほどパリに滞在しました。その間、パリ在住の日本人に会って食事をしたり、万国博覧会を見学したりして過ごしています。

 「漱石のパリ日記~ベルエポックの1週間」(山本順二 彩流社 2013年12月)は、漱石のパリでの1週間の足取りをたどったものです。その史料となったのは漱石の日記です。

漱石のパリ日記140313
(表紙の中央部はコンコルド広場にあった1900年パリ万国博の正門)

 10月22日(月)
 十時ごろより公使館に至り安達氏訪う。あらず。其の寓居を尋ねしが又遭わず。浅井忠氏を尋ねしも是亦不在にて不得巳帰宿。午後二時より渡辺氏の案内にて博覧会を観る。規模宏大にて二日や三日にて容易に観尽くせるものにあらず。方角さえ分からぬ位なり。「エヘル」塔に上りて帰路渡辺氏方にて晩餐を喫す。是より Grand Voulevard に至りて繁華の様を目撃す。其の状態は夏夜の銀座の景色を五十倍位立派にしたる者なり。
 10月23日(火)
 朝、樋口氏来る。昼食を喫す。岡本氏来る。日本食の晩餐を喫す。それよりMusic Houseに至り又 Underground Hall に至る。帰宅す。午前三時帰宅す。巴里の繁華と堕落は驚くべきものなり。
 10月25日(木)
 渡辺氏を訪う。それより万国博に行く。美術館を覧る。宏大にて覧尽せれず。日本のは最もまずし。
 10月27日(土)
 博覧会を覧る。日本の陶器、西陣織最も異彩を放つ。
 

 このように、漱石の日記はメモ程度の記録で簡潔すぎたため、著者の山本順二は、漱石と交流のあった日本人の日記や記録、当時のパリの新聞雑誌などの記事を参考にしています。

 1900年のパリ万国博は5000万人の入場者を集め、この記録は1970年の大阪万国博まで破られなかった。日記中の「エヘル塔」とは、前回(1889年)のバリ万国博で建てられたエッフェル塔だが、1900年のパリ万国博は動く歩道や電気技術の展示などが目玉となり人気を集めた。

 夜まで明るくにぎやかなパリの様子を、漱石は「退廃」という言葉で表現している。また、美術館では日本人作家の日本画や洋画について「まずし」と書いています。その反面、陶器や西陣織などの伝統技術の展示では誇りを感じていたようです。

 漱石のパリ滞在は短いが、英語教師でありながらフランス語学習の必要性を感じるなど、その後の作家となる漱石にとって、何かと得るものも多かったパリ滞在だったようです。そして1900年10月28日、漱石は1週間のパリ滞在を終えてロンドンに向かいました。

 10月28日(日)
 巴里を発し倫敦に至る。船中風多して苦し。晩に倫敦に着す。

青文字部分は「漱石のパリ日記~ベルエポックの1週間」(山本順二 彩流社 2013年12月)よりの引用






お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう

Last updated  2014/03/16 03:25:37 PM
コメント(0) | コメントを書く
[最近読んだ本] カテゴリの最新記事



© Rakuten Group, Inc.
X