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カテゴリ:最近読んだ本
1900年のパリ万国博を中心に 1900(明治33)年、熊本の第五高等学校英語教師だった夏目漱石に国費留学の辞令が出ました。漱石は妻と2歳の長女を東京の妻の実家に残し、9月8日、ドイツ客船プロイセン号で横浜を出港しました。漱石33歳のときのことです。 プロイセン号はシンガポール、スエズ運河を経て、10月19日にイタリア北部のジェノバに着きました。そこからは鉄道でパリに向かい、10月21日にパリに到着しています。 漱石の留学先はイギリスのロンドンでした。しかし、当時ちょうどパリ万国博覧会が開催中だったので、同行した他の4名の留学生とともに1週間ほどパリに滞在しました。その間、パリ在住の日本人に会って食事をしたり、万国博覧会を見学したりして過ごしています。 「漱石のパリ日記~ベルエポックの1週間」(山本順二 彩流社 2013年12月)は、漱石のパリでの1週間の足取りをたどったものです。その史料となったのは漱石の日記です。
10月22日(月) このように、漱石の日記はメモ程度の記録で簡潔すぎたため、著者の山本順二は、漱石と交流のあった日本人の日記や記録、当時のパリの新聞雑誌などの記事を参考にしています。 1900年のパリ万国博は5000万人の入場者を集め、この記録は1970年の大阪万国博まで破られなかった。日記中の「エヘル塔」とは、前回(1889年)のバリ万国博で建てられたエッフェル塔だが、1900年のパリ万国博は動く歩道や電気技術の展示などが目玉となり人気を集めた。 夜まで明るくにぎやかなパリの様子を、漱石は「退廃」という言葉で表現している。また、美術館では日本人作家の日本画や洋画について「まずし」と書いています。その反面、陶器や西陣織などの伝統技術の展示では誇りを感じていたようです。 漱石のパリ滞在は短いが、英語教師でありながらフランス語学習の必要性を感じるなど、その後の作家となる漱石にとって、何かと得るものも多かったパリ滞在だったようです。そして1900年10月28日、漱石は1週間のパリ滞在を終えてロンドンに向かいました。 10月28日(日) ※青文字部分は「漱石のパリ日記~ベルエポックの1週間」(山本順二 彩流社 2013年12月)よりの引用 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2014/03/16 03:25:37 PM
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