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「翼よよみがえれ!」 1945年8月15日の「玉音放送」によって、多くの犠牲者を出した(兵士と民間人合わせた死者は約310万人といわれる)太平洋戦争は終わった。同時に真珠湾攻撃の4年前の1937年に始まっていた日中戦争も終わりを告げた。 終戦の時点で、中国大陸や旧「満州国」にいた兵士や民間人は約150万人といわれる。ドイツ降伏以降、戦力を東方に移動させていたソ連は、日ソ中立条約を破り8月8日に対日参戦した。その混乱のなかで、約18万人の日本人が命を落としたと言われている。 日本の軍国主義は東京裁判で断罪され日本人は一様に深く反省させられた。しかし、アメリカは原爆投下で民間人を大量に殺戮した。ソ連軍は60万人にのぼる兵士や民間人をシベリアに抑留し6万人を死亡させた。このような、戦勝国による戦争犯罪は全く裁かれていない。 5月27日、オバマ大統領は現職のアメリカ大統領として初めて広島を訪問する。オバマ大統領がどんなメッセージを発するのかを注目したい。 話がそれたが、今日のテーマは、中国共産党人民解放軍の空軍創設の話である。国共合作によって手を結んで対日戦争を行っていた蒋介石の国民党軍と毛沢東の共産党軍は、日本の敗戦とともに主導権争いが始まり中国は内戦状態に入った。 ソ連軍南下の混乱のなかで、日本陸軍航空隊の飛行士や整備士たちが、八路軍(共産党軍)の捕虜となった。中国共産党は空軍の創設のために日本兵を利用した。日本兵も将来の復員を約束され共産党軍に協力した。彼らの多くは新設されたばかりの航空学校の教官となった。 「翼よよみがえれ!」 もともと共産党軍には空軍がなかった。そこで、旧日本軍の隼などの残骸を集めて飛べる練習機を組み立てた。航空学校の入学生には優秀な共産党員が選抜されたが、かけ算九九もできないという者もいたという。 そういうなかで、優勢な空軍を持つ国民党軍が空爆をはじめるようになった。毛沢東は、戦力の充実している国民党軍とは正面から戦わず、農村を移動しながら遊撃する作戦を基本としていた。だから、航空学校も長春、瀋陽、ハルピン、牡丹江と再三移動を繰り返した。 国共内戦が共産党の勝利に終わり、1949年10月には北京で中華人民共和国の建国式典が開催された。このときに航空学校の卒業生たちはP51戦闘機など米英各国の旧型機ではあるが17機による観覧飛行を実施して見事成功した。 航空学校は様々な困難を乗り越え、後に中華人民共和国空軍の幹部として活躍する人材を育成した。朝鮮戦争を経た1953年、日本人約300名の帰国が認められた。終戦から8年が経過していた。その間、事故や病気で死亡した33名の日本人の墓は黒竜江省の牡丹江市にある。 帰国した彼らは、中国共産党に協力した者として就職もままならなかったという。すでに時代は東西の冷戦時代に入っていた。西側陣営に入っていた日本では、中国からの帰国者というだけで社会から冷たい目で見られたという。 1972年9月、日中国交回復が実現した。帰国した元航空学校教官たちも苦労しながら日本での生活再建をおこなっていた。1884年、航空学校創立40周年の式典に元教官たち日本人50人が中国空軍から招待され、懐かしい航空学校の地を訪ねたという。 以上、この本の概要をまとめたが、中国空軍の創生期に日本人が関わっていたことを初めて知った。かつての敵(八路軍=共産党)に協力することになった兵士や民間人の人たちの苦悩が伝わってくる。しかしこのことは生きて帰るために仕方ない選択だった。 昨今は何かときな臭い日中関係である。南シナ海方面には中国空軍の偵察機がしばしば飛んでいる。でも、その創生期は日本人の力なしではあり得なかった。 ↓ランキングに参加しています。よかったらクリックをお願いします。 にほんブログ村 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2016/05/23 10:42:43 PM
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