百済文化祭の旅、最終日
天安市のホテルを8時に出発して、観光バスで大邱に向かう。京釜高速道路を南東に南下する。車窓には黄色に色づいた田んぼが広がっていて日本の風景と見間違うほどだ。
高速道路を約220km走って10時半すぎに東大邱インターを降りて大邱市内に入った。大邱市の人口は約250万人、韓国では、ソウル、釜山、仁川についで4番目の人口を持つ。
「大邱柱山大聖堂」
(創建に尽力したフランス人宣教師ロバート神父の像と教会の尖塔)
1899年に韓国伝統様式で建造されたが焼失したため、1902年に洋式によって再建された。資材はフランスから持ち込んだもので、ロマネスク様式をもとにしながら尖塔やステンドグラスなどにはゴシック様式となっている。韓国では3番目に古い教会だという。
「祭壇の後ろのステンドグラス」
(仏像の光背と同じ効果だが、教会は建物自体にその仕掛けを施す点が違う)
教会見学した後はまたまた免税店に寄る。免税店がとても好きなバスなのである。百済文化祭の旅も5回目となり、購買意欲をそそられるモノはない。体調も相変わらず良くないので、都市化の片隅に置いてきぼりにされつつある昔ながらの八百屋さんを撮ったりして過ごす。
「ささやかな商い」
(真昼の時間帯であるが、夕方になると少しはお客さんがくるのだろうか)
昼食はふぐ料理だと聞き旅行団の面々の期待はまるでふぐのようにふくらんだ。しかし、予想と違っていた。ふぐの味噌煮込み料理と言った感じの大皿がどんと出てきた。
「ふぐのプルコギ」
(プルコギは韓国風の煮込み料理で、日本で言うとすき焼きみたいなもの)
ちょっともったいないふぐの食べ方である。このお店は有名店のようで繁盛していた。この旅では最後の食事であったが、この珍しいふぐ料理に旅行団の皆さんの箸は結構進んでいた。
食事の後は最後の見学地、達城郡の友鹿里(ウロクキル)にある「達城韓日友好館」に向かった。付近の風景を見わたすと、日本の山里に来たかのようだ。この施設は2012(平成24)年に開館したばかりで、「沙也可」に関する資料を中心に日本と韓国の交流の歴史を展示してある。
「沙也可」という言葉から、「豊臣秀吉の朝鮮出兵の時、朝鮮に投降し日本軍と戦った武将」という、うろ覚えの知識がよみがえった。沙也可は雑賀(さいが)衆ゆかりだったという推測から、雑賀衆の故郷である和歌山市に関する展示もある。
沙也可については、伝記『慕夏堂文集』に詳しい。それによると、沙也可は1592年4月に加藤清正軍の先鋒として釜山に上陸したが、朝鮮の文化に感心するとともに、秀吉の出兵に疑問を感じて3000人の兵士と共に朝鮮側に降りたという。
その後、沙也可は火縄銃の技術で日本軍と戦い、その功績により金氏の姓を朝鮮王から賜り、金忠善と名乗って帰化人となった。そして、この友鹿里に土地を与えられて住んだ。その後も女真族の侵略を撃退するなどの活躍もあり韓国では教科書にも登場する英雄とされている。
「沙也可(金忠善)を祭る書院」
(沙也可については日本側には資料がなく、その存在は闇につつまれている)
ただ、朝鮮出兵を大義のない戦いと感じ、投降した日本兵がいてもおかしくない。現在も沙也可の子孫と称する金氏一族がこの友鹿里に住んでいるという。400年以上も前の伝承が今も生きている。そこには戦いという殺伐な言葉とは違ったロマンを感じる。
※日本側に記録が無いのは、裏切り者のことを快く思わず記録から落ちているのだろう。歴史はこうして欠落する部分も多い。(2023年10月14日追記)
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