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テーマ:旅のあれこれ(10281)
カテゴリ:旅先にて
法務省旧本館にある法務資料展示室を見学 23日午後3時、3日間15時間の研修が終わった。羽田発の飛行機は18時発である。折角東京に来たのにあまりゆっくりと見物も出来ない。そこでまずは、法務省旧本館のある法務資料展示室をたずねた。ここだけはぜひ見ていきたいと思っていた。 「合同庁舎6号館A棟の地下一階広場より」 江藤新平といえば、佐賀の乱の首謀者として記憶している人が多いだろう。残っている写真も和服姿のため、士族の反乱の首謀者としての印象が強いかもしれない。ところが、法制度整備の面で、当時としてはとても革新的な考え方を持ち、江藤は初代法務卿(法務大臣)としてそれを実行した。 「明治年当時の司法省幹部」 しかも、江藤新平は法務資料展示室ではとても高く評価されているのである。佐賀人としてはこのほかに、副島種臣や大木喬任などのパネルも掲示されていて、いささか佐賀人としては鼻が高い。といっても、厳密には旧佐賀藩地域の人にとってという但し書きがつくかもしれないが。(現佐賀県は、外様大名の鍋島氏の領地と7人の譜代大名が治めた唐津地方を合わせたもの) 資料展示室に入ると、正面に江藤新平は新しい司法制度の構想を「司法職務定制」としてまとめる。これは1972(明治5)年の司法卿就任からわずか3か月後のことだったと言われる。 「司法職務定制」 この「司法職務定制」は、法務資料展示室の入り口の正面に展示してあった。「写真撮影は接写以外ならいい」と掲示してあったので、全体を写すふりをして、コンデジRX100Ⅵのズームを200mmにして写すと、ちゃんと江藤新平の文字が写っていた。 「江藤新平の名前」 江藤はその後民法の制定に取り組んだ。彼は民法について司法卿就任前から研究していた。そして、1873(明治6年)3月に「民法仮法則」を作成した。裁判制度についても、英国やフランスなどの三権分立制度の導入を考えていた。ところが、この案は、行政権と司法権は一体であると考える政府内の保守派から反対を受けた。 江藤新平の政治生命は、明治6年(1873)の政変によって大きく左右された。西郷隆盛の征韓論に同調した江藤は、同年10月24日に西郷隆盛、板垣退助・副島種臣・後藤象二郎らとともに下野(政府を辞すること)した。そして、翌年1月12日に民撰議院設立建白書に署名して帰郷を決意する。 佐賀には新政府に不満を持つ不平士族が二派にわかれていた。憂国党と佐賀征韓党である。夕刻党の首領には北海道開拓使判官だった島義勇(よしたけ)が担ぎ上げられ、江藤新平は佐賀征韓党の首領に推された。大隈重信、板垣退助、後藤新平らは江藤の帰郷を強く止めた。下野し帰郷したことは、新政府の実権を握った大久保利通の思うつぼだった。のちに西郷隆盛も同様の運命をたどっている。 佐賀の士族は当初は勝利をおさめたが、大久保利通が自ら佐賀に向かうと政府軍の前になすすべがなかった。江藤は佐賀征韓党を解散し、鹿児島の西郷や土佐の民権派に士族の挙兵を乞うが断られる。その後、岩倉具視への上申書を携えて上京を試みるが、徳島県安芸郡東洋町付近で捕縛される。 この江藤の困難な逃避行につては松本清張の「梟示抄(きょうじしょう)」という短編に描かれている。また、司馬遼太郎は「歳月」という長編小説の中で江藤を取り上げている。 その後の大久保利通の措置は異常にも迅速だった。江藤は公平な裁判を受ける権利を主張したが、その主張は一蹴されてしまう。江藤は佐賀に送られ4月8日に形だけの裁判を受け死刑を宣告される。13日に死刑が執行され江藤の首は嘉瀬川に晒し首とされた。法律制度の基礎を創った江藤新平は、形だけの裁判で、一応は法のもとにおいて処刑されたのである。 江藤新平は薩摩長州の藩閥政府が、江藤の民主的な法制度を認めなかったことに不満を持ったのであり、新政府を転覆する意図はなかった。政府は下野しても帰郷しなかった同じ佐賀人の大隈重信、副島種臣、大木喬任らはその後も政府内で活躍する。 「副島種臣についてのパネル」 その後江藤は、1889(明治22)年、大日本帝国憲法の発布の時の恩赦により名誉を回復された。1916(大正5)年、正四位を追贈されている。墓は佐賀市内本行寺にあり、墓碑銘は書家としても有名だった副島種臣によるものである。
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Last updated
2019/09/05 01:06:17 PM
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