|
テーマ:日本の歴史(1071)
カテゴリ:最近読んだ本
咸臨丸回顧談
咸臨丸に、勝海舟(幕末には勝安房と名乗っていた)は「教授方頭取」として乗船している。だが、前回も書いたように通訳として咸臨丸に乗船していたジョン万次郎は、海舟を「艦長」としている。 以下引用 「咸臨丸で渡米」 ~前略~ ちょうどその頃、おれは熱病を患って居たけれど、、畳の上で犬死をするより は同じくなら軍艦の中死ぬるがましと思ったから、頭痛でうんうん言って居るを も構わず、かねて通知しておいた出帆期日も迫ったから、妻にはちょっと品川ま で船を見に行くと言い残して、向こう鉢巻きで直ぐ咸臨丸に乗りこんだヨ。それ から横浜に行って石炭を積み、いよいよ東に向かって日本の地を離れたのだ。 この咸臨丸というのは、長さが三十間ばかりの極めて小さい船だったヨ、噸数は 今ちょっと忘れたが、乗組員は上下合わせて百余名もあったろうヨ。 熱病というのは冬でもあるしインフルエンザか。咸臨丸は「日本人が操船して初めて太平洋を渡った」ということになっている。しかし、出航直後の悪天候で乗組員の大半は船酔いで役に立たなかった。そこで、ジョン・ブルックというアメリカ軍の士官(大尉)とその部下が操船を助けたと言われる。海舟は熱病で船室で寝たっきりだったようだ。 「咸臨丸」 (咸臨丸の写真と言われてきたが、最近の研究で別の船の写真ともいわれる) 咸臨丸の船体については、長さ27間半(約50.0m)、幅4間(約7.27m)、100馬力だったという記録がある。(「日本海軍艦船名考」) 引用続き およそこの頃遠洋航海をするには、石炭は焚かないで、帆ばかりでやるのだか ら、咸臨丸も幾たびか風波のために難船しかかったけれども、乗組員もいずれも かねて覚悟の上の事ではあり、かつは血気盛りのものばかりだったから左程心配 もしなかった。俺の病気もまた熱のために吐血したこともたびたびあったけれど、 ちっとも気にかけないでおいたら、桑港(サンフランシスコ)に着く頃には、自然 に全快してしまった。 このあと、海舟は南米航海を計画するが使節の正使に反対されて断念する。その代わりに帰途にハワイに寄港している。復路はほとんど日本人の手で操船して45日間航海して帰国した。 この咸臨丸での渡米は1860年で、海舟は36歳の頃だった。「氷川清話」は1892(明治25)年から1896(明治29)年にかけてのころの談話である。概して江戸っ子らしいというか語りっぷりに気風(きっぷ)の良さが感じられて面白い。 一般に、若い頃のことは美化されたり誇張されたり、記憶違いもあったりするが、海舟はほぼ正直に述懐している。咸臨丸に同乗していた福沢諭吉の「福翁自伝」を参照したら参考になるだろう。だが、福沢と海舟はウマが合わなかったようで、互いに相手のことに対する評価は厳しい。そんなところもまた面白い。 ↓ランキングに参加しています。良かったらクリックをお願いします。 写真日記ランキング お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2022/02/23 01:47:42 PM
コメント(0) | コメントを書く
[最近読んだ本] カテゴリの最新記事
|