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テーマ:日本の歴史(1071)
カテゴリ:日本史・世界史
半島に残る戦国武将の城跡
前回、本ブログでは肥前名護屋城跡の南側の池について書いた。のどかな秋の一日だった。この名護屋城は豊臣秀吉の朝鮮出兵時の根拠地として築城され、秀吉も一時期在陣したことがある。国の特別史跡である。 文禄、慶長の二度にわたる朝鮮出兵で、半島に渡った兵力は16~20万、名護屋城周辺の陣屋に駐屯した兵力が10万と言われている。いずれにしても、名護屋城築城開始(1591年)から、文禄の役(1592~93年)、慶長の役(1597~98年)に渡る約10年間、一寒村だった名護屋の地は、臨時首都とも言える繁栄を極めたのだ。 名護屋城跡は日本百名城(2006年指定)の一つでもある。ただ、名護屋城のことは知っていても朝鮮出兵の際、日本軍が根拠地として朝鮮半島に築いた城があること、そして現在も残っていることはあまり知られていない。 現在朝鮮半島南部を中心に、30余りの城跡が確認されている。これらを総称して「倭城」と呼んでいる。「倭」は日本のことを意味する。これは朝鮮側の呼称で、秀吉は「仕置きの城」と呼んだ。「仕置き」とは支配という意味である。 「倭城を歩く(第二版)~2018年・サンライズ出版」 (20余りの倭城について、構造や現況などについて詳説されている) 秀吉は全国統一後、唐(明)にて隠居する計画を持っていたといわれる。そのために朝鮮出兵は「唐入り」と呼ばれることもある。だから当初「倭城」は、釜山から漢城(現在のソウル)に至る秀吉の御座所(宿営地)として計画された。 しかし、一時は漢城や平壌にまで達した日本軍だったが、補給線が伸びて半島を面として支配することができなくなった。徐々に日本軍は苦戦するようになり、補給線の確保が大きな問題となっきた。 こうして日本軍は漢城から撤退し、慶尚南道の普州城の確保に注力した。文禄2年(1593年)には総力を集中して普州城を落とし、半島南部における日本軍の支配を固めることになった。このために築かれたのが狭義の「倭城」である。 「倭城の配置図」 (佐賀県立名護屋城博物館、特別展資料より) 朝鮮出兵は、当時の朝鮮王国にとっては大災難で多くの犠牲者が出た。現在の大韓民国にとっても「倭城」は負の遺産である。その負の遺産が、破却されることも少なく現在まで残り、一部は公園として利用されているという。 一度「倭城」を歩いて見たいと思い、近いうちにいくつかの倭城を訪ねる予定である。名護屋城跡もそうであるが、門や櫓や天守などの建造物は無くても、石垣を見るだけで往時をしのぶことは十分可能だ。 ↓ランキングに参加しています。良かったら下をクリックして下さい。 写真日記ランキング お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2023/11/15 02:45:01 PM
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