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テーマ:海外旅行(7523)
カテゴリ:海外の旅
亀浦(かとかい)倭城、金海竹島(きんむい)倭城、金官伽耶の遺跡
午前7時30分、ホテルの朝食。昼と夜は韓国の名物料理を食べることが多いので朝は軽めに済ませる。9時前に金先生がホテルに迎えに来てくれた。10分ほど走ったら最初の見学地亀浦(かとかい)倭城だった。 「中心部の石垣」 (市街地の75mほどの丘にあり、宅地化などで破却された部分が多い) 1593(文禄2)年、小早川隆景らによって築かれた。すぐ西を流れる洛東江からの物資の搬入に便利な地である。崩壊したり埋没した石垣も多いが、文化財に指定されていて公園として活用されている。 「すぐ向こうには高層アパート群」 (登城路をウォーキングしている人が見える) 築城当時の石垣がほぼ完全な形で残っている。この城は明国との講話が進む中でいったん廃城とされたが、交渉決裂により1598(慶長3)年に毛利秀元がここを修築したという記録がある。 次に、洛東江の西側にある金海竹島(きんむい)城に行った。この城は1593(文禄2)年に鍋島直茂によって築城された。後に伊達政宗もここに在陣したという。城下には朝鮮民衆の集落もあり、城下町が形成されていた。 「金海竹島(きんむい)城」 (典型的な日本式石垣で、草刈りなど管理はされているが崩れそう) 11時、昼食の場所へ。ニラのスープと小豆の炊き込みご飯がこの店の売り物のようである。ご飯を野菜などの具のの入ったどんぶりに入れてビビンバのようにして食べる。スープがとても美味しかった。 昼食後は伽耶古墳群を見に行った。日本の中学校歴史教科書には「大和政権は、4世紀ごろ、鉄や進んだ技術を求めて朝鮮半島南端の伽耶諸国と関係を深め、百済とも同盟を結んで高句麗や新羅と戦いました。」とあります(令和2年:教育出版「中学社会歴史」)。 大成洞博物館には、日本の2世紀の勃興期から6世紀後半(562年)に倭(日本)から百済に割譲されるころまでの遺物が展示してあった。この時期は日本では大和政権が力を増してゆく時期であり、伽耶諸国から鉄器をはじめとする様々なモノや技術が伝えられていたことと重ねて考える必要がある。 「古墳群から出土した鉄器」 (当時の鉄は、今でいえばリチウム、チタンなどのレアメタルに相当する) そのあと金官伽耶の初代王、首露王の陵を見学した。周辺には拝殿などの建物も復元してあった。ただ、首露王の即位は紀元42年だが、天から6個の卵が降ってきてその中の一つから首露王が生まれたという、あくまでも説話である。 金先生と、その六個の卵があるという丘に登ったが先生の記憶にある「卵石」?はなく、ただ径30mほどの砂地の広場があるだけだった。ちなみに、金官伽耶国は魏志倭人伝で言う「狗邪韓国(くやかんこく)」であるとされている。 3時過ぎ、金先生が教授として勤めていた釜山外語大学に行った。もう冬休みに入っているのか学生たちの姿は少なかった。そのあと喫茶店に入ってカフェオレを頼んで休憩時間とする。この喫茶店はとても笑顔がやさしいママさんがいた。 「カフェオレのほかに美味しいものが」 (右上はとても甘い柿大富士で右下は韓国名物のヤッカ~妹さんの手作り?) 先生とママさんが親しく話している。そのうちにママさんとよく似た女性が、韓国銘菓「ヤッカ」を持ってきてくれた。後で分かったが、この姉妹は金先生の妹さんたちだった。とてもくつろいだ時間を設定していただいた。 夕方、ホテルにチェックインして、まず駅前の両替屋で5000円分両替する。昨日1万円両替したが、昨日より少し円高になっていた。5千円で45000ウォンだったと思う。この日の夜は釜山駅近くで海鮮スープを食べた。 ※本ブログの記事は、金先生のお話や下記の本を参考にしました。 ↓ランキングに参加しています。良かったら下をクリックして下さい。 写真日記ランキング お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2024/01/03 03:44:34 PM
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