ステファノフ & コテフスカ「ハニーランド 永遠の谷」十三シアター・セブン 毎日の雨模様と開幕以来やたら負け続ける、どこかの球団のせいで、すっかり出不精になっていましたが、この映画「ハニーランド」が神戸には来ないと知って、大慌てで十三のシアター・セブンまで出かけてきました。
早く着き過ぎたので、30分ほど淀川の河川敷を歩きました。薄曇りでしたが、汗だくになりました。劇場のトイレでシャツを着替えて着席です。着替えたのは正解で、汗だくのままだと風邪をひいていたと思います。
30人ほど入れる小さなホールに客は数人でした。北マケドニアという国があるそうです。マケドニアといえばアレクサンダー大王という名前でしか知りませんが、紀元前の話ですね。
断崖の絶壁から眩暈がするような谷を覗き込むようにして、ロングスカートの女性が岩の中に入っていきます。
岩の狭間に手を差し入れ、岩盤を外すようにするとミツバチの巣が出てきました。なにやら群れ飛ぶ蜂に語りかけているようです。
半分はわたしに、半分はあなたに。
チラシにもある決め文句を口にしたようですが、自然との共棲に関心のある人ならだれでも知っている言葉でした。
この映画は、監督が撮ろうとした「物語」に対して、信じられないほどのベストマッチな俳優を、偶然でしょうか、キャストとして得て、生活そのままに演技をさせた結果、目指していた以上の「物語」が出来上がったというべき映画だったと思いました。
要するにドキュメンタリーとしては話が出来すぎていて、制作過程において、所謂「やらせ」の要素が「0」であるなら、奇跡としか言いようがない展開なのです。上に書いたセリフも、かなりきわどい境界線上の、むしろ、映画のために用意された「セリフ」というべき言葉ではないかと感じました。
事実はわかりませんが、もう少し、穿ったことを言うと、主人公の女性が住む「廃村」、彼女と年老いた母以外には人の気配のなかった高原の谷底にある「村」に牛の群れを追いながら、トラックでキャンピング・トレイラーを引いて大家族のトルコ人一家がやって来ます。
彼らも、この映画を「物語」として見るには、欠かせない不幸をもたらす「客人・マレビト」の役柄を演じきり、3年ほどの滞在で去って行きます。
「過度の人口増加と貧困」、「最後の辺境を探し求める資本の論理」、「文明による自然破壊」、「同種交配の繰り返しによる疫病の蔓延」、そして「隣人との繋がりの喪失」。
一家が演じて見せるのは、マケドニアの僻地にまで、突如、闖入してくる「現代社会」の「欲望の化身」そのものでした。
もう一つ、勝手なうがちを付け加えるとすれば、招かれざる隣人が嵐のように去ったある日、沈黙が支配する闇の中でラジオのヴォリュームを調節しながら「聞こえる?」と声をかける、母との永遠の別れのシーンの迫力は、ドキュメンタリーであるからこそなのですが、果たしてこんなシーンが実際にドキュメントできるものなのかどうか、疑い始めれば際限のないことになりそうです。
ドキュメンタリーとしてのこの映画を貶めるようなことばかり書きました。しかし、この作品は制作過程の経緯やジャンルの分類に対する疑いを超える映画であったことは事実なのです。
マケドニアという、ヨーロッパの辺境の自然の中で、おそらく親の言いつけにしたがい、60年を越える生涯、自然養蜂を生業とし、独身で過ごした女性が、老いて片目を失っている老母を介護し、その死を看取った夜、悪霊退散の松明をふりかざし、他には誰も住んでいない廃村の辻々を一人で練り歩く姿には、世界宗教以前の「孤独な人間」の自然に対する「信仰」と「畏れ」が息づいていました。
隣人も去り、家族も失った彼女の姿が、高原の夕日の中で愛犬と連れ添うシルエットとして映し出されるシーンには、文明の片隅で生きているぼくの中にも、ひょっとしたら流れているかもしれない「神話的な時間」を想起させる力がたしかにあると感じました。
半分はわたしに、半分はあなたに。
やがて来る、彼女の自然な死と共に、この世界から永遠に失われる「あなた」を描いたこの作品は、やはり「すぐれた作品」というべきではないでしょうか。
監督 リューボ・ステファノフ & タマラ・コテフスカ
製作 アタナス・ゲオルギエフ
撮影 フェルミ・ダウト サミル・リュマ
編集 アタナス・ゲオルギエフ
音楽 Foltin
2019年・86分・北マケドニア
原題「Honeyland」
2020・07・21 シアターセブンno5
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