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カテゴリ:真の幕臣、小栗上野介
「小栗上野介忠順」 (一) (小栗家の系譜) 「父上、母上、行ってまいります」 玄関より嫡男の剛太郎の元気な声が聞こえてきた。 小栗家の当主、忠高(ただたか)は開け放った離れの一室で茶を喫しながら、 嫡男の声を耳にしていた。二月に入った時節がら、部屋は冷気に充ちている。 彼は庭先に眼を転じた。梅の枝には固い蕾がここ数日続いた小春日和の せいか、微かに綻んで見える。 忠高は八年前を思い出していた。わしが三十、妻のくに子が二十三歳の 時に、剛太郎が生まれた。 時の流れの速さを改めて実感した。 剛太郎を見送ったくに子が部屋にあらわれ、静かに忠高の前に座した。 「貴方、何を考えておられます?」 忠高は庭の枯れ木の間を、藪鶯が俊敏に駆け抜ける様を眺めながら、 「倅も元気になったものじゃ。玄関の声を聞き昔を思い浮かべておったのじゃ」 と、朴訥な口調で応じ妻を見やった。 「寒い日々が続き、育てる自信がございませんでしたに」 くに子が往時を偲び遠い眼差しで、端正な横顔を夫に見せて微笑んだ。 忠高も穏やかに微笑している。 後年、小栗上野介忠順(こうずけのすけただまさ)と名乗り、幕府再建を必死 で実践する漢(おとこ)となる、少年が生まれた時期は、文政10年(1827年) 2月12日の寒い明け方であった。 2千5百石の直参旗本の名家の嫡男として生まれた剛太郎は、見るからに 弱々しい赤子で、くに子が語るがごとくこの様に元気に育つとは、正直なとこ ろ忠高も思い及ばぬことであった。 「貴方、最近は学問も著しい聞き安心いたしております」 「そうよな、先日、講武所で男谷精一郎殿にお聞きしたが、島田道場での剣 の修行も一段と腕をあげたそうじゃ」 島田道場の主は島田虎之助と言って、男谷精一郎の弟子で直心影流の 遣い手とし名を馳せ、男谷精一郎と島田虎之助、大石進が幕末の3剣士と 言われていた。 島田虎之助は剣以外に儒教や禅を好み。 『其れ剣は心なり、心正からざれば、剣また正しからず、すべからず剣を学ぶ 者は、心より学べ』と、教えていた。 この道場には忠順の言動に何度となく反対した、後年の勝海舟が学んでい た。海舟には自分の出自に負い目があったようだ。 彼の祖父は越後出身の盲人であったが、苦労の末に検校の位をえて、 男谷検校となのり、海舟の父、小吉に御家人の株を買ってやった。 故に勝海舟は根っからの幕臣ではなかった。そうした海舟の鬱積した心が、 小栗上野介の怜悧な才能に反発を持ったのかもしれない。 小栗家は直参旗本の中でも特別な名家で、神田駿河台に屋敷を構えてい た。くに子は先代の忠清の長女として生まれ、旗本の中川忠英の4男として 生まれた忠高が、養子縁組をして小栗家に入り当主となったのだ。 今は御小姓組の中堅とし信頼をえており、すでにに齢40歳となっていた。 剛太郎は7歳となり、父の勧めで文武に励むことになり。学問は安積艮斎 (あさかごんさい)の見山楼で朱子学を学んでいた。 安積艮斎は朱子学の大家として知られ、小栗家の屋敷内を借り受けそこに 塾を開いていたのだ。 彼の門下生には清川八郎、岩崎弥太郎などがいたが。忠順の友人で彼の 施策の遂行を陰ながら、常に尽力する栗本鋤雲(じょうん)もいたのだ。 にほんブログ村 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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