最後の幕臣、小栗上野介の生涯。
「小栗上野介忠順」 (最終回) 上野介主従は運命の朝を迎えた。その日が慶応四年閏四月六日であった。 上野介は爽やかに目覚めた。昨夜、考えぬいた覚悟は固まり、何の迷いもなかった。勝負の時じゃ、東山道総督府に幕臣として痛烈な反論を述べる。 そう思いつつ部屋の障子戸を開け放った。心地よい春の風が吹きこんでくる。 彼は窓から見える遥か先の村里に視線を向けたが、春霞の所為で見通すことが出来なかった。 廊下に足音が響き官軍の兵士が二名、彼の部屋を訪れた。「小栗殿、軍監の原保太郎さまがお呼びにござる」 彼は兵士の案内で原保太郎の部屋に導かれた。 ピリピリする緊張感の漂う部屋に、床几に腰をかけた原保太郎が、うかぬ顔つきで待っていた。「総督府からは何方が我等の尋問に参られます」 上野介の問いに原保太郎が低い声で応じた。「誰も来ませぬ。・・・かわって拙者が総督府の命令をお伝えいたす」「何と・・・」 上野介が不審そうな顔をした。「小栗殿と家臣等は、即刻、斬首せよとの命令を受理いたした」 原保太郎の言葉に上野介が小首を傾けた。「総督府は何も尋問せず、我等の弁明も聞かずに斬首を命じられたと申されるか。原殿、そこもとなら何かを知っておられよう。我等の罪状は何でござる」「何も聞かされておりません。ただ、そこもと達の刑の執行を命じられたまで」 原の答えを聞いた上野介の体躯から、怒りが吹きあがった。剽悍な眼が天を仰いでいる。汚し新政府、わしに何も語らせずに葬る積りじゃな。「幕府閣僚のそれがしが斬首に御座るか、官軍はまさに烏合の衆じゃ。このような勝手な処分を行えば、この先、厳しい抵抗を受けますぞ」 上野介が原保太郎の肺腑を抉るような烈しい言葉を投げつけた。 その後の四っ半(午前十一時)、何の取り調べもないまま、烏川の水沼河原に家臣の荒川祐蔵、大井磯十郎、渡辺太三郎と共に引き出された。河原には大勢の村人が固唾を飲んで見守っている。 中には念仏を唱える者や、涙を流し別れを惜しむ村人もいた。「殿、このような片手落ちの処分には納得が参りませぬ」 大井磯十郎が精悍な顔で訴えた。 彼等の胸中は痛いほど分かるが、こうなってはいかんともしがたい。「許せ、わしが至らない所為じゃ。幕臣の意地を見せ官軍と一戦すれば良かったと後悔しておるが、遅きに失してしもうた」「黙れ、新政府に歯向かうような言葉は慎め」 官軍の兵士が銃を構え大声で静止した。「わしは小栗上野介じゃ。貴様らのような下っ端に何が分かる」 上野介の怒声が河原に響いた。家臣も改めて無罪を大声で主張した。「静かに致せ。もうこうなった以上は、三河武士として未練を残すのは止めよう」 上野介が一同を諭した。もう全てが終わったのだ騒ぐだけ未練じゃ。 上野介はそう思った。そこに軍監の原保太郎が歩み寄り訊ねた。「何か言い残すことは御座らぬか」 上野介が柔和な眼差しで笑みを浮かべた。「それがしは何も御座らんが、母と妻、娘を逃がし申した。これらの者に寛典のご処置をお願いしたい」 原保太郎が無言で肯いた。鳥川河原には四枚の筵が敷かれ、その前に穴が掘られている。そこに首が落ちるようになっている。 処刑の順は荒川祐蔵、大井磯十郎、渡辺太三郎と共に引き出され、斬首された。いずれも立派な最期であった。河原の光景は凄愴なものであった。「お気の毒に」 最後と成った上野介が筵に座し、空を仰いだ真っ青な空が広がっている。 昔、遣米使節として渡米した時のポーハタン号から見た太平洋の空の色であった。背後に原保太郎が佇み、刃に水をかける音を聞いた。「ご足労をお掛けいたす」 上野介が首を伸ばし、さっと冷たい感触を感じ時が上野介の最期であった。 処刑が終わると主従の首は青竹に刺され道端の土手に晒され、無実の罪状をつげる高札が建てられた。「小栗上野介 右の者朝廷に対して奉り大逆企て候事明白につき 天誅を知らしめるなり 東山道鎮撫総督府」 こうして切腹の名誉もなく家臣と共に斬首された、小栗忠順は享年四十二歳であった。翌七日、養子の又一と塚本真彦が、高崎城内で罪なくして斬首された。 こうして男達の生涯は終わったが、遺族の女衆は中島三佐衛門と農兵、村人に護られ、道子、母のくに子、鉞子は村を脱出した。目指すは会津で、坂上村、六合村、秋山郷、十日町、新潟と昼は隠れ夜を歩く苦難な旅を続けた。ことに秋山郷の山道は険しく、江戸育ちの道子にとっては官軍に追われ逃げまどう境遇は、身重の躰にどれほど辛い旅であったかと推測される。 母はのくに子は新潟で亡き夫、忠高の墓参が叶うことに成った。 農兵はその夫人達を支え、新潟からさらに会津若松へと至る。 まもなく会津戦争が始まると農兵も会津藩に加わって戦い、塚越冨五郎と佐藤銀十郎を戦闘で失う。二人とも二十代の若者であった。会津藩家老横山主税の許にに身を寄せ、まもなく生まれた上野介の実子国子を加え、中島等は敗戦の会津若松で苦難の日々を過ごし。明治二年の春に江戸に出て、さらに静岡まで夫人達を送り届けて村に帰った。まさに乞食同然の姿であったという。 道子等も暫くし江戸に出たが、戻るべき屋敷もなく、彼女達の世話をしたのが、かつての小栗家の奉公人であり、上野介に恩義を感じていた三野村利左衛門であった。利左衛門は日本橋浜町の別邸に上野介の家族を匿い、明治十年に没するまで終生、上野介の家族の面倒を見続けた。その間、小栗家は忠順の遺児、国子が成人するまで、駒井朝温の三男で忠道の弟である忠祥が継いだ。 利左衛門の没後も、三野村家が母子の面倒を見ていたが、明治十八年に道子が没すると、国子は親族である大隈重信に引き取られ、大隈の勧めにより矢野龍渓の弟、貞雄を婿に迎え、小栗家を再興した。 こうして小栗忠順が亡くなり、四月十一日には江戸城の無血開城。 五月十一日には越後長岡藩と政府軍の北越戦争が勃発。 五月十五日には上野で彰義隊の上野戦争が勃発する。 更に会津戦争、奥羽戦争と続き、翌年の五月十八日に漸く北海道の五稜郭の戦争が終結する。 このように上野介の死を契機に戊辰戦争が拡大し、一年後に漸く終息するのであった。 小栗忠順は幕府再建の為の戦争ならば反対をしなかったが、このような革命の為の戦争を望んではいなかった。早く平和となって西洋列強に劣らない国造りを望んでいたのだ。(逸話) 大隈重信・・・明治政府の施策は全てが小栗上野介の模倣である。それ故に 上野介は殺される運命にあったと述べている。 福澤諭吉・・・福澤は勝海舟を嫌っていた。初めは遣米使節の護衛とし咸臨丸 の勝海舟の行状を見て軽蔑した。後に福澤は痩せ我慢の説で勝 を批判する文章を書いている。何故、戦わなかったのかと、戦後 は、慶喜の十男の精を養子に貰い官位を得ていることも批判した。 東郷平八郎・・彼は日露戦争が終結すると小栗の家族を屋敷に招き、貴方の父、 小栗上野介殿が、横須賀製鉄所を作ってくれたお蔭で日本は勝利 しましたと礼を述べている。 最後に上野介の横須賀製鉄所の、スチーム・ハンマー(マザーマシン)は平成の世まで百三十年間もの長い間、稼働を続けていた言います。 これを以て小栗上野介は瞑すべきかー 完 小栗上野介忠順(1)へ