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カテゴリ:真の幕臣、小栗上野介
「小栗上野介忠順」 (4) 時は天保七年、日本各地で飢饉が起こり、国中が乱れ幕威の衰えが 目立ちはじめた時代であった。国外に眼を転ずれば露国が樺太を狙って 南進政策を活発化させ、幕府はこれを留めるべく必死に苦慮していた。 徐々に鎖国政策の国是が破綻を見せはじめる時期を迎えていたのだ。 男谷精一郎は幕府の講武所教授とし、朧気(おぼろげ)に世情の逼迫を 肌で感じはじめていた。 男谷精一郎は剛太郎を前にし、小栗家の働きに思いを馳せ剛太郎の 成長に心を砕くのであった。 上野介の生まれた文政十年は幕末から明治にかけ、それぞれの藩を 背負って活躍した傑物が多く生まれていた。 日本の最南端鹿児島の島津家には西郷隆盛が、中央部の江戸では、 この主人公の小栗上野介が、雪深い越後長岡藩には河井継之助が誕生 していた。この三人の晩年は激動する時代の波にのまれ、非業の最期を 遂げる運命であったが、幕府崩壊を阻止せんと奔走した小栗上野介と 河井継之助は、奇(く)しくも四十二歳で世を去った。 小栗上野介は幕府が大政奉還した後に、幕閣より野にくだったが、 河井継之助は旧幕軍とし、北越の地で壮烈な戊辰戦争に参加することに なる。西郷隆盛は明治政府の立役者となるが、征韓論に敗れ故郷に戻り、 担がれて西南戦争を引き起こし、壮烈な最期を遂げることになった。 剛太郎は十三歳となり、益々、文武に励み筋骨逞しい少年に育っていた。 それと同時に思春期特有な悪戯にも手を染めるように成っていた。 同塾の友人喜多村瀬兵衛と連れ立っては、道々、若い娘を揶揄ったりし て大人達のひんしゅくを買っていた。 また父母や師に隠れて煙草を吸うことも覚えた。 季節は五月を迎え、二人は大川の土手に寝っ転んで煙草を吸っている。 皐月の陽に照らされ川面が眩しいほどの上天気である。 「剛さん、あんた大人になったら何をするね」 突然に瀬兵衛が、ニキビ面の顔で訊ねたが、真剣な様子である。 「おいらには分からんよ」 剛太郎が紫煙を吐き出しながら気のない返事で応じている。周囲は 雑草の若芽が強烈な臭いを漂わせている。 真っ青な空に浮かんだ雲の変形する様子が面白く、眼を細め飽かずに 眺めている。 「剛さん、あんたは直参旗本の名家の嫡男だ。羨ましいよ」 瀬兵衛が剛太郎の痘痕面の顔を覗き込み、羨ましげに言った。 「瀬兵衛さん、何を羨んでおる。あんたも御典医じゃ」 剛太郎の言葉に瀬兵衛は、乾いた眼で応じた。 「あんたは小栗家の嫡男じゃ。上様にもお目通りできるし政事にも加われよう」 そう言いつつ瀬兵衛は煙草を詰めてながら言いつのった。 「おいらは三男じゃ、精々、何処かの婿養子がおちじゃ」 大人びた口調に自虐が込められている。剛太郎にも瀬兵衛の気持ちは 分かるが、全面的に彼の考えを容認する気持ちもない。 「瀬兵衛さん、あんたは俊才じゃ。悲観するなよ、いずれ機会が訪れるから」 剛太郎の言う通り、瀬兵衛は学問では名が知れていた。近いうちに幕府の 昌平学問所に入ることになっていたのだ。 一刻ほど瀬兵衛の愚痴を聞き、剛太郎は駿河台の屋敷に戻った。 彼の姿を待ち受けていた用人の筑紫五郎左が、しわがれ声を発した。 「若さま、旦那さまがお庭でお待ちかねにございます」 言うだけ言うと五郎左は忙しそうに奥に姿を消した。 小栗上野介忠順(1)へ お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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