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カテゴリ:真の幕臣、小栗上野介
「小栗上野介忠順」 (5) 剛太郎は言われるままに庭に向い、不信感が胸を走り抜けていた。 今までにこのような呼び出しを受けたことがなかったのだ。 剛太郎は不安を胸に秘め、石畳を急いだ。 小栗家は由緒ある家柄に相応しい広大な庭があり、池には緋鯉や真鯉が 群れ、時折、飛沫を跳ね上げている。 四季の花々も絶えることもなく、池の端には紫色の杜若(カキツバタ)が 群生し、巧緻に配された奇岩の間には、芍薬が大輪の花を咲かせ眼を和ま せてくれる。松の大木が枝を張り、自慢の百日紅の下の庭石に腰を据え、 自分を待っている父の姿が、剛太郎の視線に映った。 「父上、なんぞ御用にございますか?」 剛太郎が声をかけ、はっと唾を飲み込んだ。 忠高が稽古着を身につけていたのだ。 「父も四十半ばとなり、そちの腕が見とうなった。二度とはあるまい直ぐに 支度を成され」 凛とした声で命じた。 忠高は温厚な人柄であるが、剣は直心影流の遣い手で、男谷精一郎から 免許皆伝を許された腕前であった。 彼は時々、一人で男谷道場で素振りの稽古をした後に、精一郎と談笑して は帰宅するので、剛太郎は父の剣の腕を見ることが未だになかったのだ。 着替えを終えた剛太郎が姿を見せると、忠高は息子の姿を眺め破顔した。 「だいぶ上達したようじゃな、逞しくなりおった」 満足そうに声をかけ木剣を差し出し、愛用の木剣を手にして軽く素振った。 剛太郎の耳朶に木剣の風切音が響き、父の腕が数段に優れていると感じ られ、自然と身内が引き締まった。 (胆力じゃ)と、剛太郎は男谷精一郎の教えを胸に父の前に進み出た。 微かに皐月の微風が吹き抜ける場に、親子は相対し、一礼し剣先を軽く 合わせ、二間の距離を保って正眼に構えて対峙した。 父の忠高は忠肉中背の体躯であるが、相対しはじめて恐怖を覚えた。 父の躯が見る間に大きく巨大に感じられ、その圧迫感で掌に汗が滲んだ。 (胆力じゃ)と、心に念じ父の眼を見つめた。 「おうー」 忠高が凄まじい声で咆哮しつつ、一歩前進してきた。 変声期を迎えた剛太郎も負けずと腹の底から声を振り絞った。 (退がっては負けじゃ)と必死で気力を込めた。 額から脂汗が滴り、忠高がそれを見て会心の笑みを浮かべた。 忠高の構えが徐々に変化している、剛太郎も必死で父の構えの変化に ついて上段の構えに変化させた。 後はない、父の攻撃に対し胆力で打ち下ろすだけじゃ。不思議と剛太郎の 心が軽くなった。 忠高は倅の構えの変化で総べてを悟った。無心になりおったなと感じた。 「これまでじゃ」 忠高は数歩ひいて剛太郎に、愛情溢れる眼差しを送った。 「今の立ち会いを忘れるでないぞ。胆力じゃ、武人たる者はそれが一番じゃ」 諭しながら忠高は嬉しかった。病弱で生まれた倅がこのように成長したこと が。腕は未熟ながらも、立ち会いの何たるを知っておる。これならば我が家は 安泰じゃ、と確信したのだ。 井戸端で親子は水を汲み、躯を洗いそれぞれの部屋に戻った。 小栗上野介忠順(1)へ お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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