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カテゴリ:真の幕臣、小栗上野介
「小栗上野介忠順」 (6) 剛太郎は自分の部屋に戻り、畳に寝転んで先刻の父との立ち会いの 様子を思い出している。免許皆伝の父があのように凄い剣を遣うとは思わ なかったし、自分に対し、深い愛情を注いでくれる父の気持ちをはっきりと 感じたのだ。父の想いに叶うように早く腕をあげ、父上の好意に報いんと 決意した瞬間、思わず涙がこみ上げてきた。 その頃、忠高は庭に面した書院で茶を喫していた。初夏の風が心地よく 部屋に吹きこんでくる。 忠高は妻のくに子に朴訥な口調で剛太郎の成長を語っていた。 くに子は微笑んで耳を傾けている。 「男谷殿より聞いておったが、剛太郎は成長したわ。剣の神髄が気迫である と悟りおった」 忠高はさりげない口調で告げた。 このように嬉しそうな夫を見るのは久しぶりであった。 「今宵は御馳走を作りましょうね」 くに子はいそいそと部屋を辞していった。 江戸は静かである。剛太郎は十四歳となり、この歳に名を改め忠順(ただま さ)と名乗ることになる。 忠順はこの頃より、人変わりをしたように活発で多弁な少年に成っていた。 顔付も大人びて疱瘡痕も薄らいで、剽悍な風貌に成っていた。 いっぱしにも腰に煙草入れを差し、隠すこともせずに所かまわずに紫煙を 吐き出していた。母のくに子は見かねて反対したが、忠高は黙認していた。 「くに子、もう子供ではないのじゃ」 忠順はこの時期に柔術と砲術の勉学を辞めた、理由は簡単なことである。 柔術なんぞは真剣と立会ぱ万に一つも勝ち目はない、砲術もしかりじゃ。 関ヶ原合戦で使った旧式な大砲の操作を学んでも、今の世の中には無用の 長物じゃ。蘭国では砲弾が焔硝で爆発する大砲があると聞いた。焼玉を撃ち 放つ大砲なんぞ、何の役にもたたぬ。 これが理由であった。誰に習った訳ではないが忠順のなかに、この頃より 理路整然と事の良否を判断する素地が育っていたのだ。 天保十一年、忠順にとって特別の年が訪れた。 六月となり、墨田の花火と形容された紫陽花が大輪の花を咲かせている。 忠順は浅草新堀の島田道場からの帰りに、突然の雨に襲われ大雨の中を 懸命に駆けていた。袴を思い切りたくしあげ細脛を露わにして下駄を手にし、 素足で駿河台の屋敷町に入った。前方に傘をさした人影が眼に映った。 すれ違いざま相手に道路の汚水がかかると察し、「ご免」と声をかけ通り 過ぎようとした彼に声が懸けられた。 「小栗さまの若殿ではございませんか?」 若々しい声を掛けられ、不審に思い足を止めた彼の躯に傘がかけられた。 「これは御親切に」 礼を述べ相手の顔を見た、自分と同年代の若侍が好意溢れる眼差しで 忠順を見つめている。衣装は清潔であるが粗末なものであった。 「おいらを知って居られるのか?」 「申し遅れました。ご近所の建部家(たてべけ)の小姓を努めます、塚本真彦 と申します。そこに藩邸がございます、雨宿りなど成されませ」 勧められるままに屋敷に導かれ、真新しい手拭で濡れた躯を拭い、 「造作をかけました」 改めて礼を述べていると、奥から中年の女性が現れた。 小栗上野介忠順(1)へ お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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