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カテゴリ:真の幕臣、小栗上野介
「小栗上野介忠順」 (7) 「真彦の母です。失礼と存じますがこの着物にお召し替え下さい」 見ると洗い晒しの真彦の衣装のようである。 「かたじけない」 忠順は素直に好意を謝し、下帯姿となって濡れた体躯を拭い身に着けた。 母親は忠順の脱いだ衣装を抱えて奥に姿を消した。 「雨が止むまでわたしの部屋で休息して下さい」 塚本真彦は忠順を促し、自分の部屋に案内した。古びた小部屋であるが 整然と片付けられ、真彦の愛読書である書物が置かれていた。 中央の机には熱い茶が用意され、この屋の人達の心遣いが感じとれる。 「ご造作をおかけします」 忠順は丁重に礼を述べた。 「武士は相身互いと申します。お気軽にお過ごし下さい」 塚本真彦はどこまでも丁寧であった。 「ところで建部さまはどのような、お勤めを成すっておられます」 「建部家は播州林田藩と申します小名にございます。主人は建部内匠頭 政醇(まさあつ)さまと申されます」 播州林田とは現在の兵庫県揖保郡のことである。 「左様にござるか」 忠順には播州の地が分からずにいたが、この日を境として忠順は建部家 をしばしば訪れることになる。建部内匠頭政醇は、忠順を一目で気に入り、 長女の道子を妻として忠順に嫁がせ、塚本真彦は用人として小栗家に仕える ことになるが、それは十年も先のことである。 八月を迎えると忠順は父に呼び出された。庭にの日陰には未だ紫陽花が 花をつけている、もう散り果てた時期というのに今年は冷夏のようだ。 書院に顔をだすと珍しく忠高厳しい顔つきで座ったいる。傍らには筑紫 五郎左が畏まっていた。 「父上、何用にございます」 忠順が剽悍な顔つきで忠高を仰ぎみて訊ねた。 「忠順、父に代わって我が家の知行地の検分をして参るのじゃ」 「・・・・・」 忠順は黙し父を見つめている。 「今、五郎左に旅の支度を命じたところじゃ」 「畏まりました」 「良いか、我が家の知行地ばかりを見るのではないぞ、道すがらの田畑や 農民の暮らしもよくよく検分して参るのじゃ」 忠高は五百両もの大金を忠順に預け、こまごまとした注意を与えたのだ。 忠順は八月の中旬に父の代理とし、小栗家の知行地、上野、下野、上総、 下総の各地に散らばる、七か所の飛び地の検分に旅立った。 この旅で忠順は彼の運命に深く係る人物と遭うこととなる。この様に天保 十一年は、彼の一生を左右する数々の人物との出会いがあったのだ。 八月十日、用人の筑紫五郎左を筆頭に家臣二名、小者五名総勢九名が 駿河台の屋敷を後にして行った。 母のくに子は心配顔をしているが、父の忠高は平然とした態度で見送っ てくれた。八月中旬と言えば、一番、暑い季節であるのに、しとしとと長雨が 降り続き、天候は不順を極めていた。 全国各地の農業は不作で、各地の村々は不穏な空気に包まれていた。 忠順はこの旅で実学を学ぶことになる。 小栗上野介忠順(1)へ お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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