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カテゴリ:真の幕臣、小栗上野介
「小栗上野介忠順」 (10) 声の主は長身の体躯で面長な端正な顔に、濃く太い眉と大きな眼を もった武士で、異常に鋭い眼光を放っていた。 「左様にござるが、ご貴殿は?」 忠順が不審そうな声で訊ねた。 「長野主膳と申します。昨夜の見事な差配には感服つかまつりました」 爽やかな口調で褒めあげ、更に言葉を継いだ。 「流石は三河の名流、小栗家の若殿にございますな」 長野主膳と名乗った男が笑みを浮かべ、忠順を見つめている。 彼は桑名の飯南郡滝野村から流れ、彦根藩、井伊家の藩士に国学を 教授していた。黒羽二重の衣装には剣かたばみの自身の紋を染め抜き、 蝋鞘の大小をたばさんだ堂々たる風格をしていた。 年の頃な二十五、六歳にみえる。本居宣長より国学を学んだ彼の、 教えは瞬く間に井伊家の家臣の間に広がり、多くの共感者が彼の門下に 集まっていた。彼は門下生に説いていた。 「朝廷は我等、日本人の心で最も尊ぶべきことです。併し、政治の中心は 幕府であり、その存続に意をそそぐことは当然のことです」 井伊家には第十一代藩主の十四男として生まれた、井伊直弼が十五年 間、三百俵の捨扶持の部屋住として過ごしていた。 後日談だが、主膳は天保十二年に近江の坂田郡志賀村に高尚館という、 私塾をひらくことになる。これが長野主膳の運命を変えることになった。 直弼が成すこともなく埋木舎(うもれぎのや)で、悶々として日を過ごして いる頃に、高尚館を訪れ主膳の器量に惚れ、師弟の関係を結ぶことになる。 嘉永五年に井伊家の当主となった直弼に乞われ、井伊家に仕官した。 後に直弼が大老と成るや、彼の懐刀として安政の大獄などの数々の献策 をする男と成るのである。 「貴方は井伊家のご家中の方か?」 忠順が不審顔で身形風采とも立派な彼に訊ねた。 「拙者はこの地で国学の塾をひらいておる一介の浪人にございます。 この飢饉の中で村民等と酒を酌み交わす度量に感服いたしました。 流石は直参の小栗家の若殿にございますな」 このような非凡な人材が浪人として存在していることに、忠順は内心で 驚嘆していた。この束の間の出会いで後年、井伊直弼に抜擢され、日本初 の遣米使節の目付として渡米を果たすことに成ろうとは、知る由もなかった。 忠順は自身の施策が間違いでなかったことを、知らされた訳である。 小栗家の一行は長野主膳と別れ、忠順と最も因縁の深くなる最後の地、 上州、権田村へと向かっていた。 既に季節は九月に成ろうとしていたが、相変わらず天候は不順であり、 びっしりと実を付けた稲穂が、たわわに実る季節を迎えても実のない稲穂 が風に揺れている光景が、一行の目前に寒々と広がっている。 忠順は既に六ヶ所の知行地を検分し、村民安堵のために三百両もの大金を 下賜してきた。こうして九月二日に上州権田村に着いた。 権田村の庄屋は佐藤家が努めており、息子の藤七が病の父親に代わり 出迎えていた。藤七は六尺ちかい大男であるが漢学と武術の素養をもち、 丁度、二十歳を迎えていた。 小栗上野介忠順(1)へ お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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