|
カテゴリ:真の幕臣、小栗上野介
「小栗上野介忠順」(214) 将軍が自ら家来の任務を解く事をお直の罷免と言う。幕府三百年来、 お直の罷免を発した事は皆無であり、小栗上野介が最初で最後であった。 此れで上野介の公人としての務めが、永久に終わりをつげた事になる。 時は慶応四年一月十五日、上野介の罷免で主戦派の面々は一掃された。 彼に代わって勝海舟が幕閣に重きを成して行く。 一月二十三日に勝海舟は陸軍総裁に推され、二月二十五日には軍事取締 に就いた。彼の任務は終戦処理内閣の首班とも言った方が、適切な言葉かも しれない。併し、これで勝海舟は幕軍の全権を握ったのだ。 一方の小栗上野介は正に倒れんとする、幕府の屋台骨を支え常に現実的な 政策の数々を実行した。彼なくてはとうに幕府は倒れていただろう。数年間の 短い期間でも徳川幕府が存続出来得たのは、彼の力量のお蔭であったと思わ れる。更に彼の立案した戦略案は傑出した案であった。 後日、上野の彰義隊の戦闘が終わった時に、官軍の軍監の大村益次郎や 幕僚達が上野介の戦略を論じあった時。此れが実現されていたなら我等の 首はなかったであろうと、大村益次郎が戦慄して語ったと言われている。 更に幕府の通詞で知られる、福地桜痴(源一郎)は次のように語っている。 「病の癒ゆべからざる知りて、薬せざるは孝子の所為にあらず。国滅び、 身斃るる迄は公事に鞅掌(おうしょう)するこそ、真の武士なれ」と云いて 屈せず、撓(たわ)まず、身を艱難の間に置き、幕府の維持を以て進み、 おのれが負担となせり。少なくても幕末数年間の命脈を繋ぎ得たるは、 小栗が与りて力ある所なり。小栗は又仏国より教師を聘して、右の賦兵を 訓練せしめ、あわせて陸軍学校を設けて将校を養成せしめたり。これ所謂 幕府の伝習兵にして、幕府の末路、しばしな健闘の誉を博したるは、即ち この兵隊なりけり。仏国公使の紹介をもって、仏国より工師、技師を聘し、 英仏より許多の器械を買入、多額の資金を投じて、今の横須賀造船廠を 設けたるは、実に小栗の英断に出たり。これ小栗が非常に勤労なりと云う べし。當時、小栗が栗本安芸守に対して「たとい徳川氏がその幕府に熨斗 を附けて他人に贈る迄も、土蔵附きの売家たるは又快からずや」と云いた るが如き。もって小栗の心事の一旦を知るに足れり」 ここに引用した文章は上野介が活躍した、九年間の業績を書き残したもの で、小栗上野介の人物像が鮮明に表現されている。 彼の足跡を偲ぶ意味で引用した次第である。此の一文で以て上野介は瞑 すべきであろう。彼に下されたお直の罷免ほど、上野介にとって無念な処置は なかったであろう。城内にある己の私物いっさい手にすることも禁じられ、直ち に身ひとつで城から追放される刑であった。 小栗上野介は昂然たる態度で江戸城から去った。 此の頃から慶喜は極度の不安を感じはじめた。上野介は罷免したが主戦派 の者達も未だ依然として江戸に止まっている。 当然、上野介も屋敷で沈黙している。此れが彼の不安の原因で、彼は毒殺を 恐れ不眠に悩んでいたのだ。 彼は殿中の食事に手を付けず、秘かに市中の料理屋から食事を取り寄せて いた。このように死を恐れた男も稀である。 彼は晩年に、余の生涯で三度、死を決したる出来事があったと語っている。 最初は慶応元年に列国より、兵庫、大阪の開港を迫られ朝廷に条約勅許の 奏上を行った時。そして禁門の変、更に官軍の江戸侵入の時であったと言う。 このような事で死を恐れた将軍は慶喜以外、類を見ないであろう。 彼は生まれついて臆病者か、先を見る目が鋭敏すぎたのか、不思議な人物 である。とまれ、時々刻々と状勢が変化する時代を迎え、西洋列強が相次い で日本を訪れて来る時代に、慶喜のような人物が徳川家の将軍と成ったことが 悲劇であったのか、それとも三百年も続いた徳川幕府自体が、丁度、終焉の 時期を迎えていたのかも知れない。 小栗上野介忠順(1)へ お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
[真の幕臣、小栗上野介] カテゴリの最新記事
|