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Jan 6, 2014
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「小栗上野介忠順」(216)


 こうした状況下でも慶喜は、仏国公使のロッシュと密談を交わしている。

 内容は幕府に対しての支援であった、まさに奇怪至極な行動である。

 ロッシュは二つ返事で同意した。彼は未だ幕府に未練があり、慶喜の態度

から察し、徳川は朝廷と一線を画し東日本の主権者とし、独立すると感じら

れるのだ。根拠は未だに幕軍の戦力は強大であり、それが成功する事は十分

に可能と判断したのだ。

 そうした時期に朝廷は遅まきながら、幕府打倒の征討軍編成と部署割りを

決定した。漸く薩長土三藩の要求が実現したのだ、その日が二月三日である。

  親征大総督府大総督               有栖川宮親王

  東海道先鋒鎮撫使総督府総督            橋本少将

  東山道先鋒鎮撫使総督府総督            岩倉太夫

  北陸道先鋒鎮撫使総督府総督            高倉三位

  奥羽鎮撫使総督府総督                 沢 三位

  海軍総督府総督                  聖護院宮親王

 征討軍は此のような体制を確立し、新政府の傘下には諸藩六十藩が参加し

た。親征大総督の有栖川宮親王は五万の兵力を擁し、二月十五日に京から

出撃した。目的地は駿河と決定していた、ここを新政府軍の兵站基地とし、

兵力、武器弾薬、兵糧を集中し、江戸攻略を実行する、これが征討軍の規定

の戦略であった。ここに慶喜を朝敵とする事が正式に決定したのだ。

 この江戸攻略戦はまさに慶喜や勝海舟が恐れた革命であった。

 旧体制を徹底的に打破し、灰塵に帰す。これが薩長土の狙いであった。

 一方、公職を解かれた上野介は一月二十八日に、上野国群馬郡権田村へ

の土着願いを提出し、騒々しい江戸の町に止まり世の中を見つめていた。

 こうして職を解かれると世の中が良く見える、今までは気にもとめなかった

ところが新鮮に見え、先の事までが見えるのに驚きを感じていた。

 今にみよ勝海舟が主戦派の者達にとった行いで脱走兵が激増するじゃろう。

 彼等は江戸を見限り関東平野に散るじゃろう。先ずは日光を目指そうな。

 彼の明敏な頭脳はそこまでよんでいたのだ。 

 その頃、江戸城では勝海舟が懸命に慶喜を説得していた。

 新政府の征討軍が京を発したとの情報を受けてのことであった。

「上様、最早、江戸を戦禍から救う手立ては上様の謹慎恭順しか御座いませぬ」 

 と、懇々と諭した。慶喜も漸く勝海舟の意見を入れ、京に居る松平春嶽に、

「臣は朝廷の裁きを仰ぎ奉ります」

 との内容の書を遣わして仲介を頼み、二月九日に残った主戦派の永井尚志、

平山敬忠を罷免した。更に散々と利用した会津、桑名の両侯を江戸城に呼び

出し、江戸からの退去と国許への帰還を一方的に要請した。

 この慶喜の処置で馬鹿をみた者が、桑名藩主の松平定敬と藩士でした。

 鳥羽伏見の戦いで薩長土は勝利し、朝廷の力を背景に各藩に恭順を勧めま

す。当然、桑名藩にも恭順の勧めが来ますが、藩主は国許を留守にしており、

国許の重臣は藩存続の為に先代の遺児、万之助を第五代藩主に据えて、

恭順を受け入れてしまいました。従って定敬主従は帰国することも叶わずに、

桑名藩の飛び地の越後、柏崎に入り征討軍と戦う羽目と成ります。

 ここにも慶喜の勝手の良さと独り善がりの性格が出ています。

 こうした事を片付け、二月十二日に慶喜は江戸城から、上野の大慈院に

ひっそりと移り謹慎生活に入った。

 この慶喜の行動で徳川幕府は三百年の終焉を迎える事に成った。

 これを契機に上野介の読み通り、幕軍の屯所から続々と脱走が始まった。

 それも三百、五百名と大量の脱走兵が各地に散って行ったのだ。

 江戸では戦いぬ、これが彼等の名分であり、幕府を見限って征討軍と一戦

せんと念ずる勇士達であった。

 これにはさしもの勝海舟も頭を抱えた、全てが精兵であり、穏便に事を処置

しょうと目論んだ勝海舟の思惑が、大きく外れた事を意味している。


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Last updated  Jan 6, 2014 05:47:58 PM
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