テーマ:"あすの日本を考える"(493)
カテゴリ:言霊の宿る国の言語学
久方の 雨も降らぬか蓮葉(はちすば)に たまれる水の 玉に似たる見む (新田部皇子) 思うんだけど、もし人が心に抱く想いとか苦悩を、リアルに読み取る術があるなら、もっと踏み込んで理解し、夢だって辛さだって共有できるだろう。 同時に、自分の内なる想いや苦痛を人にも理解して貰え、いわば双方向的な関係になる。 だけど残念ながら、そんな他人の苦悩は、あくまでも経験の範囲で想像することしかできないもので、所詮は自分の主観に捉われて判断してるだけで、人の本当の気持ちをリアルに汲むなど到底理想の世界でしかない。 想いを人に伝えるのは難しい。 ましてや、人の想いを汲むなど、ことのほか難しい。 例えていうなら、"聞こえない心の物音"のようなもの。 失敗や苦しい出来事が多かった人ほど、人の苦痛を見て取れるとはいうけど、結局は底の底まで理解するには遠く及ばないんだ。 人の心の物音に、もっと耳を傾けなければいけないと、自分の未熟さが醜くも思える出来事が、身近なところで次々と起きている。 自分の経験では、単に置き換えて想像してるだけの事で、それを果たして"理解"と呼べるだろうか? 砂はまだまだ成長過程のはじまりに過ぎないと思い知らされる... 蓮(はす)は、インドとその周辺諸国を原産地とする水生植物だ。 分類学上はスイレン目 ハス科 ハス属。 睡蓮(すいれん)の方はスイレン目 スイレン科 スイレン属だから、一応仲間だけど蓮と睡蓮は違うんだよね。 蓮は、暗黒の泥の中に命を宿し、泥の上に蕾を伸ばして 汚れのない美しい花を咲かせる。 そんな生態的特徴から、蓮は、俗世の艱難辛苦(かんなんしんく)の果てに花咲くとういう意味を持つ。 古くは「はちす」と呼び、このほか水芙蓉(みずふよう)、不語仙(ふごせん)、池見草(いけみぐさ)、水乃花(みずのはな)などの別名でも呼ばれ、仏教では蓮華(れんげ)と表わす。 仏教のみならず古代エジプトでも神聖とされ、ヒンドゥーの神話やアーユルヴェーダでもシンボルとして登場する。 密教では、吉祥天(きっしょうてん)を蓮の化身とする修法があって、やはり特別な意味を持つ。 とくに、仏教の世界観では仏の智慧や慈悲の象徴で、人は往生して、浄土の蓮の上に生まれ変わって身を託すという思想から、「一蓮托生」の語源にもなったそうだ。 蓮は、明け方に咲きはじめて午後に一端閉じ、2日目に再び開いて芳香を放ち、3日目に花は全開するが香りは薄くなって4日目には散ってしまうんだ。 蓮を目にすると、泥の中に育ちながら何故こんなに気高い姿で咲くのかと感心する。 一人一人の人生の到達点みたいだと思ったりもする。 今日の砂のBlogは、テーマだけ見ると一瞬ホラー話だと思うだろ?(笑) お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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