君の名は
松谷みよ子さんの「ふたりのイーダ」を読み返していました。映画を見た遠い記憶があります。体育館のような場所で、一日かぎりの、集会のような上映でした。たぶん、実写の映画を見たはじめ。白黒だったか、カラーだったか、それも覚えていないのだけど、小さな椅子がコトリ、コトリと動いたこと、過去のヒロシマを語る場面で(なぜかここだけは薄いカラーの印象で)水色の画面を釘でひっかいたような死者の絵がゆっくりと流れていったこと、その晩こわい夢を見たことが、ぼんやりぼんやり記憶の中を浮き沈みしています。本を読む前に見たんだと思う。見終わったあと、母が「まだむずかしかったね、」と話かけたことだけは、はっきりと覚えているから。最初に「ふたりのイーダ」を1人で読みきったとき……小学3年生か4年生のときだったけれど、「もう、むずかしくないもん。」とやっと心で言い返したから。「ふたりのイーダ」は読むのに難しい話ではちっともないです。生まれ変わりのエピソードなどに、惹かれひかれて、ぐいぐい読める。お話としては、ほんとにおもしろいのです。重い重い話ですが。コトリコトリ、小さな椅子が歩く。「イナイイナイ ドコニモイナイ。」キノウカラ、キノウノキノウカラ、キノウノキノウノキノウカラ、ワタシノイーダハカエッテコナイ。オジイサントアサハヤクデカケタッキリカエッテコナイ。ワタシハズットマッテイルノニ、ワタシノイーダガカエッテコナイ。イナイ、イナイ、ドコニモイナイ……喪失の存在はとても濃密。たとえたくもないけれど、もしも不意の暴力で命たちきられた子がいるのなら、教室の中、椅子はコトリコトリ歩きだすかもしれない。怨念からではなく、(ワタシニキノウコシカケテイタコガドコニモイナイ)喪失感から、コトリコトリ、歩くかもしれない。西日のあふれる放課後のタイル張りの廊下を、人が誰もいないとき、長い影ひいて、椅子が歩く。歩いている。