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テーマ:城跡めぐり(1258)
カテゴリ:城跡と史跡(茨城編)
戦国時代の始まりはいつかと言うと、「人の世むなし応仁の乱」の1467年だと覚えてきました。
その応仁の乱より以前、すでに関東では北関東を中心に戦国時代に突入していたと思っているのですが、その幕開けとなったのが結城城を舞台にした1440年の結城合戦かも知れません。 ところで応仁の乱は細川勝元と山名持豊(宗全)の守護大名同士の戦いではありますが、その背景には室町幕府将軍足利義政の後継争いに加えて、三管領のうちの畠山氏と斯波氏の相続争いが絡み、全国の守護大名を2分して10年以上続いた戦いでした。 (高校時代の日本史でも、この応仁の乱の相関図を理解するのは一苦労でした) 関東の結城合戦の方も複雑極まりないのですが、この相関図を紐解いていかないと、その後の関東の戦国の歴史もなかなか見えてきません。 室町時代の関東では、将軍足利氏が京都にいる一方で、鎌倉府に関東公方として同族の足利氏がおり、その関東公方を補佐する関東管領に上杉氏がいました。 普通にこの秩序が保たれているならば何も問題はないのですが、坂東武士の気性なのかはわかりませんが、鎌倉公方足利氏と関東管領上杉氏が度々対立するようしていたのが、戦国初期の関東の構図です。 身近な例で言うと、京都本社に足利社長がおり、関東支社の支社長も同族の足利支社長で、その関東支社長が上杉副支社長と言ったところです。 ところがこの時の関東支社長である足利支社長(関東公方)は京都本社(室町幕府)の言うことを聞かず、度々上杉副社長(関東管領)を悩ませて対立していた、と言うのが当時の関東の構図でしょうか。 前置きは長くなりますが、結城合戦は関東管領上杉氏憲(禅秀)が関東公方足利持氏に対して反乱した1418年の「上杉禅秀の乱」に端を発しています。 この時は関東管領上杉氏憲(禅秀)が関東公方足利持氏と室町幕府によって鎮圧されますが、その後は上杉禅秀の後に関東管領を継いだ上杉憲実と関東公方足利持氏の対立が決定的となりました。 上杉憲実に救援を求められた室町幕府は足利持氏の討伐軍を派遣し、関東諸将も討伐に加わった戦いが1438年の永享の乱です。 足利持氏は討伐軍の前に敗北して自刃し、ここに関東公方は消滅しました。 その2年後の1440年、関東公方再興をのため、永享の乱で自刃した足利持氏の遺児を擁して、室町幕府に反旗を翻したのが結城城の結城氏朝と結城持朝の父子でした。 上杉禅秀の乱から永享の乱を経て結城合戦へと長い前置きですが、この結城合戦には歴史を変える「幕末」を感じます。 歴史上「幕府」は鎌倉幕府・室町幕府・江戸幕府の3つしかないので、「幕末」や幕府軍との戦いも3回しかなかったことになります。 ところで「幕末」と言えば江戸幕府の倒幕が代名詞でしょうか。 その幕末の四境戦争(別名が聞いてあきれる「長州征伐」)では、高杉晋作や山縣有朋そして大村益次郎によって、本拠地である萩城どころか江戸幕府軍に防長の地を踏ませることなく敗退させています。 一方の鎌倉幕府や室町幕府への「反幕」においては、楠木正成が鎌倉幕府軍に対して上赤坂城や千早城の籠城戦で応じたのと同じく、結城氏朝・持朝父子も室町幕府軍に対して結城城の籠城戦で応じました。 その結城合戦は1年近くにおよぶ籠城戦だったのですが、「城跡公園」となった結城城跡を見る限り、その籠城戦に耐え抜いた堅固な印象はありませんでした。 結城城西館跡 解説板にある縄張りを見る限りでは、とても1年の籠城戦に耐えられるようなものではなく、むしろ普通に一重の堀に囲まれた中世の居館跡といった感じです。 内堀跡 関東の歴史を左右した結城合戦の舞台にしてはあまりに寂しく、城跡公園の近くにわずかに空堀が残っていました。 城跡公園のある西館跡からさらに城郭の西側に回ってみると、城跡を偲ばせる土塁の跡も残っています。 結城合戦では、室町幕府軍10万に包囲され、籠城戦を戦ったそうです。 この一帯を幕府軍が包囲していたのでしょうか。 室町幕府のみならず関東諸将を巻き込んだ結城合戦でしたが、籠城戦の末に結城氏朝は討死し、結城氏朝が擁立した足利持氏の遺児春王丸と安王丸も室町幕府将軍足利義教の命によって殺害され、1年近くにおよぶ結城合戦も幕を閉じました。 それでも結城合戦を振り返ると、戦国時代を予感させることがらもあります。 何よりも源頼朝の挙兵以来の名門結城氏が室町幕府に反旗を翻したことで、ここに武家政権の最高権威である幕府の権力がすでに失墜していたと思われます。 さらには関東の諸将を巻き込んだ戦いであったことで、戦いに勝利することでの領土的野心も窺えます。 また、参戦した関東諸将の中には、同族でありながら幕府方についたり足利持氏・結城氏朝方についたりと、従来の武家的秩序が失われて家中が分裂していました。 そんな中、この結城合戦から始まる江戸時代の小説がありました。 曲亭馬琴(滝沢馬琴)の「南総里見八犬伝」で、足利持氏・結城氏朝方として参戦した里見家基(小説では里見季基)が、最期を前にして息子の里見義実を落ち延びさせる場面から始まっています。 (その後は白浜城からの里見氏の再興や八犬士の誕生、さらには八犬士の活躍による「関東大合戦」での大勝利と、史実と異なってはいますが) そんな関東の戦国時代を告げる結城合戦も遠い過去になってしまったと思いきや、西館の本丸跡にはこんな碑が建っていました。 結城合戦タイムカプセル 1981年に埋められたもので、結城合戦終結からちょうど600年後の2041年に再び披露されるそうです。 (それにしても何が埋まっているのでしょうか) 結城合戦では敗れはしたものの、小山朝光が結城氏を名乗って以来、鎌倉時代から江戸時代まで続いた結城氏の本拠地が結城城です。 ところが城跡にある結城市教育委員会の解説板には、「結城城は治承年間(1177年~1180年)に結城朝光が築いたとされるが確証はない。むしろ南北朝動乱期に築城されたと見るべきであろう」と。 教育委員会にここまで断言されては二の句が次げませんが、その根拠を知りたいところでもあります。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2017/07/05 04:49:59 PM
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