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テーマ:城跡めぐり(1258)
カテゴリ:城跡と史跡(茨城編)
常陸太田の市内に入ってくると、中心部には「鯨ヶ丘」と呼ばれる小高い台地が広がっています。
鯨ヶ丘に続く「大田七坂」の1つ板谷(ばんや)坂 番屋があったことの由来しているそうです。 鯨ヶ丘公園 丘陵上にありながら江戸時代には宿場町として栄え、現在も一方通行の細い道や旧家が残っていて、旧街道筋の面影を残していました。 鯨ヶ丘には板谷(番屋)だけでなく、内堀町や中城町など、城郭にゆかりのある地名が残っています。 鯨ヶ丘の北側、現在の中城町にあったのが、平安時代から19代続く佐竹氏の本拠地太田城でした。 実は太田城を訪れるのは2回目で、城跡がどうなっているかはわかってはいるものの、やはりここを訪れないわけにはいきませんでした。 太田城の跡にある太田小学校 小学校の周囲に残る土塁が、かろうじて北関東の雄者の本拠地を物語っていました。 太田小学校の校庭にある舞鶴城(太田城)の碑 小学校では「わが町の歴史」みたいな話を学びますが、太田小学校にいたっては平安時代から戦国時代の末期にいたるまで、「まさにここがその場所でした」となるのかも知れません。 太田城は1110年に藤原秀郷の子孫である藤原通延が築いたと言われています。 ちなみに藤原秀郷(俵藤太)は、同じ常陸の英雄である平将門を討伐して名を上げた人物です。 新羅三郎義光の流れを汲む佐竹氏の初代佐竹昌義の時代に、藤原通延の孫である藤原道盛を服属させたことから、佐竹氏も本拠地を馬坂城から太田城に移しました。 以後450年間にわたって太田城は佐竹氏の本拠地となっています。 19代にわたる佐竹氏の歴史の中で、その名を馳せたのはやはり18代佐竹義重でしょうか。 南に北条氏政、北に伊達正宗がいながら、太田城と常陸北部を守りぬいた人物です。 念願の常陸統一はその子である19代佐竹義宣の時でしたが、佐竹氏の本拠地が水戸に移った後も、佐竹義重は太田城から動くことはありませんでした。 豊臣秀吉の時代に晴れて常陸54万石の当主となった佐竹氏でしたが、徳川家康の時代になって形勢は逆転しました。 関ヶ原の戦いにおいて、石田三成と親交のあった佐竹義宣は、東軍・西軍のどちらにもつきませんでした。 一方で佐竹義重は徳川家康につくことを主張し、真田氏と同様に父子で東西が分かれる結果となっています。 関ヶ原の戦い後、佐竹義宣の父である佐竹義重が徳川家康に嘆願したことにより、名門佐竹氏の断絶は免れたものの、常陸54万石から出羽秋田20万石へと改易になっています。 太田城で悠々自適の隠居生活を送っていた佐竹義重も秋田に移ったのですが、さすがは伊達政宗や北条氏政との戦国を生き抜いてきた「鬼義重」、新天地の秋田で一揆が起こると、自ら馬を駆って鎮圧にも出て行ったこともありました。 それでも新天地では源氏の名門を捨てて、何とか信頼を勝ち得ようとしていたのも「鬼義重」でありました。 秋田を訪れた時、タクシーの運転手さんから普通に「佐竹のお殿様」との言葉を聞いたことがあって、その時は佐竹父子の人柄が偲ばれるような気がして、嬉しく思ったことがありました。 関ヶ原の戦い後に佐竹義重・義宣が断絶とならず改易となったことについて、徳川家康が名門を重んじることも理由に挙げられるとは思いますが、何よりも佐竹義重・義宣の律儀な人柄が評価されたことだと思います。 佐竹氏が常陸から出羽秋田に移るにあたり、常陸の美人を全員秋田に連れていったのが秋田美人の由来とされ、関ヶ原の腹いせにそうでない人は徳川頼宣の水戸に送りつけたとする説がありますが、佐竹義重・義宣の人柄から考えると後世の創作だと思います。 ちなみに以前盛岡を訪れた時、「きれいな人が多いな~」と驚いたこともあり、これは秋田に限ったことではないとも思います。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2017/07/24 08:31:38 AM
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