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テーマ:城跡めぐり(1258)
カテゴリ:城跡と史跡(茨城編)
探せば見つからず、あきらめると見つかるのは世の常ですが、河和田城はまさにそんな城跡でした。
水戸市の河和田に城郭があったことは知っていたのですが、戦国時代の中世城郭でもあって、丘陵部にある山城をイメージしていました。 周辺にはそれらしい丘陵はあるものの、いずれも城跡ではなく、あきらめて帰ろうとしたところ、交通量の多い幹線道路沿いに高い土塁が見えました。 どうやら寺院の境内のようですが、寺院にしては堅固な土塁で囲まれている印象です。 正面に回ってみると 山門の横に河和田城の城跡碑があり、ここが河和田城でした。 土塁の外側には堀が巡らされていたようで、その堀跡も残っていました。 どうやら平城だったようです。 土塁を内側から見た所 寺院の土塁にしてはあまりに高く、いかにも城郭らしい雰囲気があります。 境内脇の駐車場にも土塁の跡が残っていました。 ところで河和田城跡は報佛寺の境内となっています。 報佛寺の本堂 普通に寺院の境内といったところですが、墓地には空堀の跡がはっきりと残っていました。 (場所が場所だけに撮影はしていません) 水戸と言えば徳川御三家の水戸藩があまりにも有名ですが、元々水戸を含めて常陸の南部には、平国香の流れを汲む大掾(だいじょう)氏が平安時代から君臨していました。 河和田城もその大掾氏の家臣である川和田入道貞国によって築城されています。 そんな大掾氏ですが、関東の戦国時代の幕開けとも言える1416年の上杉禅秀の乱で、負け組みの上杉禅秀についたため、常陸南部の領地を没収されることとなりました。 代わりに水戸に入ったのが、上杉禅秀の乱で勝ち組の足利持氏についた江戸通房で、水戸城とともに河和田城も江戸氏の配下となりました。 (この江戸通房は、まさに現在の東京都心部、武蔵国江戸に土着した江戸太郎の流れを汲んでいます) 永らく江戸氏の支配下であったのですが、1590年に豊臣秀吉による小田原の役の時、江戸氏は北条氏についていたため、常陸は秀吉についていた佐竹義宣に与えられることとなりました。 この時に江戸氏は佐竹氏に抵抗しましたが、水戸城も落城したために河和田城も廃城となっています。 その後の話ではありますが、その佐竹氏も関ヶ原の戦いで石田三成についたため、常陸から出羽秋田に移封となっています。 運悪く負け組みについてしまったのが、河和田城の歴史でしょうか。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2018/01/19 10:40:38 PM
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