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テーマ:史跡めぐり(508)
カテゴリ:城跡と史跡(茨城編)
偕楽園の門は5つあり、水戸市内に最も近いのが東門で、「偕楽園駅」に近い南門などがポピュラーな入口です。
それでも表門は水戸市内からも駅からも遠い北側にあり、ここから入る人はほとんどいないようです。 表門をくぐるとさらに木戸があり、意外にも竹林が広がっていました。 表門だけでなく、東門にしても南門にしても、同じ公園の入口とは思えないほど、門からの景色が違っています。 東門 南門 偕楽園は都市公園としては日本一の規模があり、世界でもニューヨークのセントラルパークに次いで2番目の規模があるそうです。 岡山の後楽園、金沢の兼六園と共に日本三名園の1つに数えられる偕楽園、他にも名園と呼ばれる庭園は数々ありますが、異なっている点が1つありました。 偕楽園にあるいずれの門の脇にも料金所がなく、すなわち入園が無料だということです。 この理由は偕楽園が造園された当初に遡る必要があるのですが、偕楽園が開園したのは江戸時代の1842年のことで、偕楽園を造園したのは水戸藩第9代藩主の水戸斉昭(烈公)です。 「孟子」の一節にある「古の人は民と偕に楽しむ、故に能く楽しむなり」から、「偕(みな)と共に楽しむ」=「偕楽園」と名付けられました。 庶民と共に楽しみたいと、身分を問わずに一般開放され、これが今の無料開放につながっています。 徳川斉昭直筆による「偕楽園記」の碑 偕楽園の名前の由来や創設の理由が記され、学問や武芸を学んだあと、余暇を利用して休息し、心身を養う目的とのことです。 さらには徳川斉昭の宇宙観や人生観、そして偕楽園「利用の心得」も記されているようです。 やはり偕楽園と言えば梅の木で、徳川斉昭の建てた好文亭も梅に由来しています。 「学問に親しめば梅が開き、学問を廃すれば梅が開かなかった」との故事に因み、建築場所から設計まで徳川斉昭が行いました。 偕楽園の梅について詠んだ、正岡子規の句碑もありました。 「崖急に 梅ことごとく 斜めなり」 偕楽園南側の斜面に句碑があります。 その南側には梅以外にもさまざまな植林があって、色とりどりに紅葉していました。 それでも季節を間違えると、とんだことになっていました。 これだけの枯れ木を見たのは初めてです。 あと何ヶ月かすれば、梅の花で埋め尽くされることでしょう。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2012/11/22 07:04:52 AM
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