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テーマ:史跡めぐり(508)
カテゴリ:城跡と史跡(茨城編)
水戸城の三ノ丸も、現在は学校や住宅が並んだ市街地となっていました。
往時の堀跡も普通の道路になっています。 それでも大手門前にある建物は江戸時代から現存するもので、異彩を放っています。 水戸藩の藩校、弘道館です。 弘道館が設立されたのは1841年、設立したのは第9代水戸藩主の徳川斉昭(烈公)です。 弘道館正門 水戸藩に限らず、藩校はほぼ全国各藩で設立されており、19世紀に入ってから設立された藩校が大半です。 西洋医学も含めた「蘭学」も教えられながら、文武両道の精神であったことは水戸藩も変わりはありませんでした。 水戸の弘道館が全国各藩と違っていたのは、何よりも「水戸学」が教えられていたことです。 徳川斉昭が初代総裁に任命したのが会沢正志斎、「尊皇攘夷」思想の生みの親です。 「尊皇攘夷」は薩摩・長州を始めとする雄藩の専売特許ではなく、その思想は水戸で生まれたものでした。 藤田東湖によって体系化され、その思想は吉田松陰や西郷隆盛などを通じて、後の雄藩に影響を与えています。 攘夷に関して言えば、実際に実力を行使したのが薩摩藩(生麦事件と薩英戦争)、長州藩(下関戦争)が有名ですが、水戸藩でも攘夷に対しての実力行使を行っています。 勅許なしに条約を締結した大老井伊直弼の暗殺(桜田門外の変)を実行したのが水戸藩士で、徳川斉昭は国防のために助川海防城を築城しています。 (もっとも助川海防城の方は外国船が攻めてこなかったので、造っただけで終わりました) 弘道館正庁玄関 弘道館の印象としてはとにかく広いということで、10万石クラスの大名御殿も凌ぐほどの広さがありました。 どうしても松下村塾と比較してしまうのですが、松下村塾とは比較になりません。 (もっとも松下村塾は吉田松陰の私塾ではありますが) 手前の広場は武芸の稽古場です。 文武に励むのが弘道館ならば、余暇を楽しむのが偕楽園でした。 改めて弘道館を訪れてみて、幕末の水戸は長州と同じくらいにアツい場所だったことがよくわかりました。 それでも水戸藩も幕末の雄藩と同じく、時代の変革期の派閥抗争を経験しています。 改革派である天狗党(桜田門外の変の実行部隊)と保守派である諸生党の抗争でした。 一度は諸生党(保守派)から追討された天狗党でしたが、戊辰戦争が新政府軍の勝利に終わると立場が逆転、今度は保守派の諸生党が追われることとなりました。 諸国を経て諸生党が立ち籠った場所が弘道館で、現在も正庁の玄関には銃撃戦の銃痕が残っています。 この辺りは高杉晋作のクーデターに始まる長州藩の幕末と重なるところがありました。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2012/11/25 08:47:17 PM
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