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テーマ:城跡めぐり(1258)
カテゴリ:城跡と史跡(茨城編)
徳川本家の江戸はもちろん、徳川御三家の中でも尾張名古屋や紀伊和歌山に比べて低い家格とされてきたのが水戸徳川家です。
それでも水戸徳川家と言えばこの御一行、現代の日本人で知らない人はまずいないかと思います。 「助さん、格さん、懲らしめてやりなさい」と言うことで、全国各地で悪を懲らしめていた助さん(モデルは佐々宗淳)と格さん(モデルは安積澹泊)です。 真ん中にいるご老公はというと、「格さん、助さん、もうよいでしょう」とか、「それでは格さん、助さん、参りましょうか」など、毎度毎度のことながら格さんと助さんが気の毒になってきます。 それにしても不思議なのは、毎度毎度懲らしめられる悪代官や悪徳商人の中で、「はて?幕府に副将軍なんていたっけ??」と誰も思わなかったことでしょうか。 その「水戸のご老公」徳川光圀や格さん・助さんの水戸城は、さすがに関東でも屈指の規模を誇る城郭だと思います。 これだけの規模を誇るのは江戸時代の江戸城は別格としても、他には北条氏時代の小田原城くらいでしょうか。 水戸駅前の交差点 普通の道路のように見えますが、三ノ丸と二ノ丸の間の堀底を通っており、背後に見えているのは二ノ丸の土塁です。 三ノ丸の西側に回ってみると、現在も空堀の跡が残っていました。 三ノ丸の空堀 三ノ丸の土塁 徳川御三家とは言いながら、総石垣ではなく中世城郭そのままの掻き揚げです。 水戸藩に石垣を積む財政的な余裕がなかったとはとても思えず、現に幕府からは「石垣を積みなさい」との命令が出ていたようです。 そもそも石垣を積む必要がなかったのか、それとも幕府が命令するから反発して積まなかったのか、いずれにしてもこの辺りに水戸藩の気質を見るような気がします。 水戸駅から弘道館へ続く道には、「三の丸歴史ロード」の名前があります。 塗籠の土塀が続いていました。 三の丸小学校。(入口は冠木門です) 三の丸小学校の前を歩いていると車が停まり、「すみませ~ん、水戸二中はどこにあるのでしょうか~?」と、道を尋ねられました。 水戸へは何度か訪れていて、「道を尋ねられるほど地元オーラが出るようになったか」とまんざらでもなかったのですが、ここは自信満々に「すみませ~ん、わかりません」と答えるしかありませんでした。 後で水戸二中の前を通ってわかったのですが、水戸二中は水戸城の二ノ丸にありました。 時代が時代なら、水戸城の三ノ丸で二ノ丸の場所を尋ねられて「それがしは存ぜぬ」などと答えたならば、これはかなりやばい話です。 「曲者じゃ!出合え、出合え!」と、大手門の番所から大勢出てきて、弘道館の前あたりで大捕物になっていたかも知れません。 その弘道館は三ノ丸の東の端、二ノ丸の大手門とは空堀を隔てた場所にあります。 二ノ丸「大手橋」から見た弘道館 二ノ丸へ続く「大手橋」 ここからは水戸城の二ノ丸、あのお馴染みのオープニングテーマが聞こえてきそうでした。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2017/07/24 08:34:33 AM
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