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テーマ:城跡めぐり(1258)
カテゴリ:城跡と史跡(茨城編)
守谷城を訪れるのは2回目で、前回訪れたのは10年以上前のことです。
TXの守谷駅周辺は随分と様変わりしており、発展している街の勢いを感じました。 そんな中、守谷城址公園の周辺はあまり変わっておらず、自然が豊かな原風景を留めていました。 守谷城遠景 守谷城は鎌倉時代に造られた「守谷本城」と、戦国期に造られた「守谷城」に分かれており、守谷城址公園には中世の「守谷本城」の遺構が残っています。 土塁と空堀の跡 旧本丸の周囲に巡らされた土塁と空堀だと思われます。 空堀の先には、曲輪の跡と思われる削平地がありました。 かつての本丸跡だと思います。 守谷本城は周囲を沼で囲まれており、水に浮かぶ島のような感じだったと思われます。 現地にある縄張図 現在は草が生い茂る湿地帯も、かつては沼の水面が広がっていたかも知れません。 守谷本城の遺構の中でも、圧巻だったのは本丸と二の丸の間の空堀跡です。 後世の北条氏時代に築かれたものだと思われますが、法面の傾斜も堀の深さも見ごたえ十分でした。 一旦守谷城址公園を離れ、後世の「守谷城」のあった場所に行ってみると、守谷小学校の隣りの住宅地の中に、土塁が残っていました。 土塁と城址碑とゼット 守谷城の案内図には「平将門城址」となっていましたが、平将門が築城したという確証はないようです。 鎌倉時代には、千葉城主千葉常胤の子、相馬師常が居城としており、約300年以上にわたって相馬氏の居城となっていました。 戦国時代に入って北条氏の勢力が下総に及んでくると、相馬氏は城郭の拡張と改修を行って、北条氏の進出に備えていました。 しかしながら小田原北条氏と和睦し、北条氏の同盟である古河公方足利義氏に城を明け渡しています。 1590年に北条氏が豊臣秀吉に滅ぼされた後は、徳川家康の家臣である菅沼定政が入城しました。 その後菅沼氏が出羽上山(山形)に移封になると、守谷城も廃城となっています。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2018/06/06 03:04:23 PM
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