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テーマ:城跡めぐり(1258)
カテゴリ:城跡と史跡(茨城編)
茨城県下妻市にある下妻城は、現在では多賀谷城と呼ばれ、かつての本丸跡が「多賀谷城跡公園」として整備されています。
多賀谷城跡公園 市街地化された城跡公園によくある話で、普通に公園です。 多賀谷城の別名にあるように、下妻城は7代147年にわたる多賀谷氏の本拠地でした。 本丸には多賀谷氏の旧家臣の子孫たちによって建てられた城跡碑があります。 城跡碑 本丸は土塁のようになっていますが、あまりにきれいに整形されているので、おそらく後世になって造られたものだと思います。 多賀谷氏の最盛期は20万石を領有しており、主筋である結城氏もはるかに上回る領地だったそうです。 現地にはかつての縄張図があり、城郭も天然の沼を要害とした大規模なものだったと思います。 下妻城の縄張図 公園のところどころに少し高くなった場所があり、かつての土塁の跡のようにも見えますが、遺構かどうかはわかりませんでした。 戦国時代の茨城県南部には、多賀谷氏に限らず独立心旺盛な武将が多くいました。 これも平将門以来の流れを汲んでいるのかも知れませんが、セミの鳴き声が止まない緑地の中で、ふと遠い戦国時代に思いを馳せたりしていました。 下妻城は多賀谷氏の初代多賀谷氏家によって築城されたとあり、15世紀の半ば頃だと思います。 すでに関東では戦国時代に突入しつつあって、結城氏などの反室町幕府勢力による永享の乱や結城合戦が勃発した頃でした。 結城氏の重臣であった多賀谷氏も、その結城合戦では結城氏と共に室町幕府軍と戦っていましたが、この時は反幕府軍の敗北に終わりました。 ちなみに反幕府軍には里見氏初代の里見義実がおり、曲亭馬琴の「南総里見八犬伝」では里見義実が安房白浜に落ち延びるところから物語が始まります。 本格的に戦国時代に突入すると、多賀谷氏も佐竹氏と共に、北条氏の関東制覇に抵抗してきました。 1590年の豊臣秀吉による小田原征伐では、第7代多賀谷重経は佐竹義宣と行動を共にし、「のぼうの城」の忍城の攻撃に参加しています。 この時の忍城攻めの総大将は石田三成で、この時の縁なのか佐竹義宣への義理なのかどうかはわかりませんが、関ヶ原の戦いでは徳川家康の誘いに乗らず、参戦もしませんでした。 結局は石田三成の味方をしたとの理由で、多賀谷氏は下妻城から追放され、下妻城も廃城となっています。 佐竹義宣秀吉が頼り、家康が怖れた北関東の義将【電子書籍】[ 近衛龍春 ] お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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